「死にたくない」
思春期からぼんやりとした希死念慮を抱えていたが、はっきりとした衝動的な自殺企図を発症してから、毎回、いつも、どうにか踏みとどまってきた。そんな私が、いつの間にか、死にたくないという気持ちを持っていた話。
救急車で運ばれた
今月の初め、体調を崩し救急車で運ばれた。脱水症状で、点滴を2L受けて一応回復したのだが、倒れたときにこのまま死んでしまうかもしれないと思った。
原因は早朝の下痢と、その後に飲んだアイスカフェラテ2杯。カフェインの利尿作用が効き、水分を失っていた。車が壊れ、携帯をなくしてから3日も経っておらず、連日の疲れがたまっていた。
元々自律神経系もガタガタだし、普通の人よりも体調を崩しやすいのもある。その日は丸1日かけて遠方へ移動する日程だった。朝6時に家を出て、高速バスと飛行機を乗り継ぎ、ホテルへ着くのは23時の予定だった。
ホテルの近くまで行く高速バスに乗ってから、吐き気がひどく、バスの運転手に要らない袋はないか聞いたり、休憩地点のサービスエリアで救急車を呼んでもらえないか聞いたりした。サービスエリアの売店はもう閉まっていて誰もいないし、救急車が来るのも時間がかかるだろうから我慢して終点まで行く方がいいと言われ、ホテル近くの終点まで吐き気をこらえながら頑張った。両手足が少し痺れてきて、呼吸も浅くなり、限界だった。
終点に着いたところでバスを降りたが、座り込んでしまい、そのまま横になった。別の乗客が救急車を呼んでくれた。意識はあるし一応話せるが、手も足も頭も自分で動かせず、担架に自分で移れなかった。吐き気max、頭はぼーっとし、全身が痺れて、息がほんの少ししか吸えなくて、死んでしまうのかと思った。
そう思ったら急に、死にたくないという気持ちが出てきたのだ。やっといい心理士さんを見つけて、トラウマ治療を掴んだところなのに、今死んでしまったら人生全部がもがき苦しんだだけになってしまう。私はまだ幸せになっていない。やっと、希望の光が見えてきたことろで死んでしまうなんて、ただ苦しんだだけの人生なんて。救急車のなかで住所や症状を答えながら無力感と悔しさに包まれた。「結局、なにもできなかった」「妹を残して死ねない」これで死んでしまったら、人生に意味なんてないし、努力も模索も、苦労も苦しみも、何にも報われない。神様なんているわけないと思った。
これには、これまでの人生が本当に辛かったこと、それを自分の手で変えつつあるということの2つの要素がある。その両方が今回の出来事を通して深く刻まれた。
生死を彷徨ったわけではないが、死を覚悟した初めての体験だった。そうなって初めて、生きること、生きて幸せになることへの執着を実感した。
おわり。