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森鷗外 堺事件
1 堺事件の顛末について
明治維新後の間もない頃、土佐藩士(事件が起こったのは版籍奉還の前)が堺で治安維持に当たっていたところ、上陸していたフランス水兵の不躾な振る舞いを正そうとして、結果として小競り合いとなり、土佐藩士がフランス水兵を幾人か殺傷し、そのことが原因で事件に関係した土佐藩士が切腹することとなった顛末を描いた史実を踏まえた短編作品である。
鷗外の筆は主観を交えず淡々と運ばれていく。
事件の責任を取らされて切腹する予定であった20名中、11人の切腹が終わったところで、フランス側の検分責任者の気分が悪くなり、日本側に助命を申し入れて9名の命が救われることになった。
2 生々しい切腹の描写について
鷗外の筆は切腹の描写について生々しく描く。
一番最初に腹を切った箕浦猪之吉は当時未だ25歳の若さ。しかし地元の藩校の助教を務める英才であり、その根本思想は明治維新後でも攘夷であった。
切腹の際、「自分はフランスの為に死ぬのではなく、皇国のために死ぬのだ。日本男子の切腹をよく見ておけ」と言い放った。箕浦は切腹途中で創に右手を差し込んで大腸を掴んで引き出し検分のフランス人を睨みつけたという。
介添人は3度目でようやく首を落としたが、途中で「まだ死なんぞ」と大声で叫んだという。
この様子を見ていたフランス人達は落ち着きを無くしたというが、宜なるかなと思う。壮烈な最後であり、その精神を浴びせられ者にとっては恐怖を感じたことであろう。
このような漢が、かつてこの日本には存在していたのだ。
鷗外はこの事実を後世に伝えたかったのだと思う。
3 切腹について
自ら腹を切る方法で自死することは怖いはずである。痛みへの抵抗は想像し難いものがある。むしろ死ぬなら、他人から首を切られて一瞬で葬られる方がより痛みも、恐怖も少ない。生物としての人間であればより楽な死に方を選ぶはずだ。
しかし、死の恐怖、痛みの恐怖を乗り越えること、死すら自分の意思の下に置こうとする精神力。日本の武士階級が何世紀にもわたって育んだその精神は、日本固有のものとして明治になるまで確かに残っていた。
その精神力は、明治維新後、日本が欧米列強と伍していく時に、欧米人への無言の圧力となったであろう。
現在では、その精神は失われてしまったが、かつてそうい漢達がいて、この国を形作ってきたことは記憶に留めておきたいと思った。
切腹の場所となった妙国寺境内には犠牲となった藩士の供養塔があり、山門の前には「とさのさむらいはらきりのはか」と記された石碑が立っていて、今に事績を伝えている。
11人の墓は、妙国寺すぐ近くの宝珠院にあると鷗外の小説には記されているが、現在は幼稚園になっていて、その中に入ることはできなかった。