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司馬遼太郎 「街道をゆく」シリーズを読む
1 新聞の書評に啓発される
新聞の書評を契機として、紹介されている本を読むことが多い。少し前に日経土曜日版の「リーダーの本棚」で日本FP協会理事長の白根壽晴氏が司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズを紹介されていた。
白根氏は講演などで全国を訪れる機会が多いらしいが、訪問前に街道シリーズを読むのだという。街道シリーズは訪問先の地理、歴史、文化を知る格好の手引書であり、そこで得た知識を地元の人と共有することでコミュニケーションに事欠かないとあった。
私は司馬氏の小説が好きで、主要な著作は多く読んできた。竜馬がゆく、坂の上の雲、翔ぶが如くなどは若い時に読み、人生の指針となった。熱い男等の生き様を知り、自分自身も彼らのように命を燃やしたいと思ったのだった。
しかし何故か、街道をゆくはどこかで敬遠してきたところがあった。
一つのテーマを追う作品ではない。だから、何のために読んだら良いかピンとこなかった。若い時の私は性急で、作品を読むにも何かを得ようと焦っていたのかもしれない。
白根氏は、「街道をゆく」シリーズの読み方の一つのヒントを与えてくれた。読んだ本を契機にして、人と繋がれるツールとして活用することができるのだと。
歳を経て私も自身の限界を知り、周りを見渡す余裕ができた。司馬氏が興味の赴くままに綴った精神の遍歴を一緒に歩いてみたいと思った。
2 読んでみて感じる司馬氏の人間に対する興味について
現在、数巻を読み終えたところ。
改めて感ずるのは司馬氏の興味の広さとその深さである。パソコンによるデータ化や知識整理ができない時代から司馬氏は作品を書いているが、一体どのように膨大な知識を整理してきたのだろうか。
彼の頭脳に集積していた知識、興味の多様さに改めて驚かされる。史記を残した司馬遷に遼(はる)かに及ばないという意味で司馬遼太郎という筆名にしたというが、日本の司馬遷というに相応しい作家であると私は感ずる。
そう思えるほど、街道をゆくシリーズでは、司馬氏の豊な知識や考察がこれでもかというばかりに頁からこぼれ出している。
中でも私が興味を引かれるのは、街道をゆくシリーズのあらゆる箇所に出てくる人物等である。
司馬氏が小説に書いた者もいれば、小説には取りあげなかった者もいる。一貫しているのは、司馬氏がそれら人物等に強烈な興味を持っていることだ。
人間として共感を覚える者、嫌悪している者、愛情を持っている者、軽蔑している者、呆れている者、理解の及ばない者、司馬氏の人物に対する態度は様々であるが、彼は取り上げる人物等全員に強烈な興味を持っている。何故その人物が、そのような人生を生きたのかを知りたいと思っている。その探究心。人間という存在がどこからきて、どこへ行こうとしているのか、なぜこの宇宙の片隅で人間が湧いて、消え、バトンを営々と繋いでいるのか、彼はそれが知りたかったのだと思う。
文庫本で43巻という大著に、彼のテーマ、精神の遍歴が刻み込まれている。
「私淑」という言葉がある。私は、街道をゆくを司馬氏と一緒に歩むことで、偉大な精神の一端に触れ、終盤に差し掛かった自分の残りの人生をいかに歩むべきか考えるきっかけとしたいと思っている。
3 街道をゆくシリーズに取り上げられていた人物
巻2「韓のくに紀行」に出てくる人物に「沙也加(さいえが)」がいる。
彼は、元は日本の武将であったが、秀吉の朝鮮の役の時に、日本側から朝鮮側に寝返って朝鮮のために戦ったという。
沙也加自身の手記である「慕夏堂記」が残っている(ただし、司馬氏は沙也加自身ではなく、彼の子孫が記したものと推測している)。沙也加は、朝鮮の役で武功があり、その後も異民族の侵入を防ぐ戦いの時によく戦果をあげ当時の李朝に厚く遇されたという。
沙也加が暮らした村にはその子孫がまだ残っていて、現在も韓国に何千人(街道をゆくが記載された時から、更に時代は降っているので今はもっと多くの子孫がいる)も生活している。韓国には、始祖の出身地すなわち本貫が戸籍に記載されているから、沙也加を始祖とするか否かは戸籍から分かるのだという。
何故、沙也加は日本側から朝鮮側に寝返ったのか。司馬氏は、沙也加が韓国と繋がりの深かった対馬の宗氏配下の武将で、自らも朝鮮と普段から付き合う人的関係があったので、そこに対して弓引くのは耐え難かったと想像している。一つの仮説である。
その点はともかく、沙也加の中では秀吉の朝鮮の役に何らの正義を見出せなかったことは確かだろう。
沙也加の決断は、朝鮮の中に日本人の種を植え、それは今に引き継がれ見事に実を結んでいる。
今、世界では至るところで分断が進み、憎しみが増大している。沙也加の隣人を愛するという生き方、そして朝鮮の中に日本の種を植え育んだという軌跡は、融和と相互理解へのヒントになるのではないかと思った。
朝鮮半島から逆に日本に渡ってきた人々は多い。663年の白村江の戦いで、百済の遺臣と日本の連合軍が唐・新羅の連合軍に大敗した後、亡国となった百済の多くの人々を日本は受けれた。今でいう戦時の難民受け入れにあたるという感じだろうか。そのことは日本書紀にも記録がある。こうした百済人達が日本の文化や生活に与えたプラスの影響は計り知れない。
渡ってきた百済人の中に王族の生き残りである鬼室集斯がいる。人となりはよく分からないが、彼は天智天皇の時に設けた官僚養成のための教育施設である大学寮の学長という地位に就いている(ただし、この説には争いがあるよう)。
百済から渡ってきた鬼室集斯を祀った鬼室神社が滋賀県日野町小野に残っているという。
百済から渡ってきた人々は、文化の違う日本の地で不安なことは沢山あっただろう。鬼室集斯がそうした人々の心の拠り所だったことは間違いない。墓碑によると没したのは688年とされているから白村江の戦いから25年後である。
日本から朝鮮半島に渡った沙也加、朝鮮から日本に渡ってきた鬼室集斯、異国の地で何を思い、故郷のことをどう思って一生を終えていったのか。
国の違い、人種の違い、宗教の違い。違いによって我々は対立し、時に血を流し、異物を排除しようとするが、個人である我々に出来ることは、対立ではなく融和を選び、与えられた環境の中で命を繋いでいくこと、それしかない。そうした個人の力が最終的には一時の悪や暴政にも打ち勝つのだと。そんなことを思った。