RIE EGUCHI & 野村直子|文学者の音楽室《2》|夏目漱石と音楽
大文豪、夏目漱石(1867-1916)の作品を好きになったのは、実はわりと最近である。
『坊っちゃん』や『こころ』には遠い昔に教科書で触れたはずだが、教科書というだけで敬遠してしまっていた。だが友人に薦められて読んだ『草枕』の幻想的な雰囲気と流麗な文章、大好きなラファエル前派のミレーの「オフィーリャ」の絵画の描写にすっかり嵌まって以来、何かを取り戻そうとするかのような勢いで読んでいる。『幻影の楯』、『薤露行』、『文鳥』、『明暗』などが好みの路線だけれど、『坊っちゃん』もやはり凄い。
読書中は音楽についての記述を探してしまう癖があり、漱石の小説にも度々音楽モチーフが登場する事に気付く。
『吾輩は猫である』、『三四郎』や『虞美人草』では登場人物がヴァイオリンを弾くし、『野分』では当時のクラシック・コンサートの様子が細かく描写されている。
漱石とロンドン
では、漱石はいったいどこでクラシック音楽と出会ったのだろう?
漱石は作家になる前の1900年(明治33年)10月末に英語研究の官費留学生として渡英。着いて間もない1901年1月にヴィクトリア女王が死去、漱石も女王の葬列に立ち合っている。2022年9月に世界中の人が見守ったエリザベス2世の荘厳な国葬と同様に、ヴィクトリア女王も自身の葬儀で流す音楽を生前に細かく指示しており、同時代の作曲家A.サリヴァンの他、ベートーヴェンの「英雄」交響曲の葬送行進曲などが演奏された。ウェストミンスター寺院の特別ミサでは、メンデルスゾーンの「無言歌集」からの葬送行進曲やヴェルディの「レクイエム」などが奏された。
漱石はおそらくこの国葬の期間にクラシックの生演奏に触れたはずだ。 日記にも葬列でヘンデルのDead March(原文ママ)を聴いたと記されている。葬儀の際は街が大混乱し、漱石はあまりの人混みで全く見えず、一緒に出かけた宿の主人に肩車をしてもらって見物したというエピソードも面白い。
また漱石は、現在もBBCプロムス音楽祭などが開催される、1871年にヴィクトリア女王の夫、アルバートの名を冠して建てられたロイヤル・アルバート・ホールで当時の大プリマドンナ、アデリーナ・パッティの実演を楽しんだようだ。
漱石と英国のクリスマス
漱石の時代の英国のクリスマスは、アルバート公がドイツからツリーを飾る習慣を持ち込み、クリスマスカードを送り合う郵便制度ができ、クリスマスが休暇になった頃。
漱石は、ロンドンの劇場でクリスマス時期の定番パントマイム(当時は歌や踊りがあるミュージカル風の舞台)「眠りの森の美女と野獣」や、「シンデレラ」を楽しみ、豪華絢爛な装置に圧倒された。劇場にはフロックコートに飾りピンでおしゃれをして出かけたという。
漱石は1901年3月31日にこれを観ている。チャールズ・チャップリンが子役で出ていたこともあるプロダクション。
漱石と日本の西洋音楽草創期
英国から帰国した頃、日本は西洋音楽の草創期を迎えていた。漱石は上野の東京音楽学校奏楽堂で開催された「明治音楽会」の常連となり、建設されたばかりの帝国劇場でもコンサートを楽しんだ。
当時活躍した音楽家には、幸田露伴の妹でウィーンに留学したピアニスト・ヴァイオリニスト・作曲家として活躍した幸田延と、日本のヴァイオリン界の礎を築き日本人として初めて国際音楽コンクールの審査員となった妹の安藤幸の幸田姉妹や、作曲家の瀧廉太郎や山田耕筰などがいた。
留学中に壮絶な神経衰弱を患った漱石だが、異国文化や芸術に触れ、シェイクスピア学者クレイグの個人授業を受けるなどした経験は、後の執筆活動と趣味の音楽人生にも多大な影響を与えたに違いない。漱石は楽器を嗜まなかったが、長男の夏目純一(1907-1999)の最終学歴はブダペスト音楽院で、日本でプロのヴァイオリニストとして活躍し、ハープ奏者と結婚している。
漢文や謡などの東洋文化にも造詣の深かった漱石が、ヨーロッパ文化に直に触れて感じ取った何かを絶妙に融合させ、精緻で端正かつ生き生きとした文章を生み出したのは、まさに近代日本の象徴のひとつである西洋音楽の受容と重なり、独特な進化と深化を遂げたからではないだろうか。
早稲田南町の漱石山房記念館裏手にある猫塚で、漱石と猫たちの生活や日本のクラシック黎明期の華やかなコンサート会場の賑わいを想った。
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和装でヴァイオリンを奏でる少女と、たおやかな立ち姿で寄り添う少女。
シックなトーンがカラフルな衣装を連想させる不思議…。圧倒的な画力に瞬時に惹きつけられる。
美術家の野村直子が描く少女たちには、儚さと気高さが同居し、少女なのにすでに風格や威厳を備えた存在感で描かれる。楽器を構えた指先と弓を懸命に見つめる美しい横顔が見据えているのは、愛奏楽器とともにこれから自分たちが歩み出す、可能性に満ちた新しい時代なのかもしれない。
明治の西洋音楽草創期にヴァイオリン、ピアノ、作曲などで大活躍した幸田姉妹。夏目漱石も二人の演奏と可憐で知的な立ち居振る舞いに感銘を受け、小説にそのイメージを登場させている。
聖夜に和装でヴァイオリンを奏でる、尊い時代の一瞬を切り取った素敵なクリスマスの贈り物の誕生だ。Frohe Weihnachten(メリー・クリスマス)…。
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真夜中の鐘がなり、慌てて舞台の淵に靴の脱げた片足をかけて一歩を踏み出すシンデレラは寂し気だが凛としたプリンセスの佇まい。
星月夜へと続く階段とグレイッシュ・ブルーとモーヴの色彩が私たちを虚構の世界へと誘う。同時にシンデレラの枠から出た一歩で現実に引き戻される感覚にもなる。
1900年からのロンドン留学中に度々劇場を訪れた夏目漱石。本作から立ち昇るのは、劇場を媒介とした、漱石の感激と共に異国の地で養われた知的な冷静さというアンビヴァレントな感性だ。この稀有な刹那の情景を写し出せるのが、舞台美術や衣装デザインなどで演劇に携わる美術家・野村直子の真骨頂だろう。
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作家名|野村直子
作品名|聖夜 奏でる姉妹
アクリルガッシュ・イラストボード
作品サイズ|22cm×17.5cm
額込サイズ|32.2cm×26cm
制作年|2022年(新作)
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作家名|野村直子
作品名|倫敦 クリスマスのシンデレラ
アクリルガッシュ・イラストボード
作品サイズ|19.3cm×24.5cm
額込サイズ|30.7cm×39.8cm
制作年|2022年(新作)
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