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美しい嘘〈前篇〉|#ショートショート
外回りから帰社した。黒いダウンのコートを脱ぎ、右手に掛けていた。
営業部の室内は閑散としていて、ちょうどその時、派遣で来た美禰子さんが、目薬を差しているところだった。
僕は、ぐっと唾を飲んだ。美禰子さんが椅子で伸ばしていた背中が、得も言われぬ曲線を描いていたのだ。
―――横顔の稜線も、申し分がなく美しかった。
見惚れているうち、美禰子さんは徐ろに僕のほうを向いた。
「―――木下さん。お帰りなさい」
僕は、幸いなことに、美禰子さんの隣りのデスクなのだ。少し気まずさを覚えながら、がたがたと椅子を引いた。
「・・・ただいまです」
「雨、止みました、外?」
彼女は髪を耳にかける。
「止んでますね。もう、降らないんじゃないかな」
あらわになった耳の形を横目で見つつ、素知らぬ振りで座る。
「そう・・・良かった」
美禰子さんは立ち上がり、しばらくしてドリンクサーバーから、飲み物を入れてくれた。
「・・・どうぞ。お疲れ様です」
僕のデスクの上に、微笑みながら、湯気の立つ香り高いコーヒーをそっと置いた。
それは、僕好みのブラックだった。
ひとり暮らしをしている僕は、もてなされることにあまり慣れていない。彼女が僕に労いを表すにつけ、いちいち反応してしまう。
同部署の女性なら、普通の範囲なのに、迂闊にも胸内で喜ぶのだった。
❄ ❄ ❄
半年ほど前、僕は美禰子さんにひとめ惚れした。営業部の朝礼で入社の紹介をされ、頭を下げているのを見たとき、もう気持ちを鷲掴みにされたのだ。
美禰子さんが来る直前、営業事務職に居た女性は、出産後まもなく引っ越して辞めた。
そのあとに派遣で入ったのが、古内美禰子さんだった。
美禰子さんは、社内での作業中、気配が無いほど静かだ。一方、上司や営業員から指示を受ける際には、黒目がちな瞳に、マッチで火を灯したような光を宿していた。
真摯な仕事ぶりなので、美禰子さんへの評価は高かった。喫煙室などで、美禰子さんの話題が出るたび、僕は身内が褒められたような感覚を覚えた。
近隣地域担当で社内にいることが多い上に、美禰子さんの隣の席だったから、しぜん接点が増える。美禰子さんの存在によって、僕の仕事のモチベーションは爆上がりしていた。
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春にはまだ早いが、暖かく晴れた日。僕は車で取引先を回っていた。
滅多に行かないエリアに足を伸ばしていると、住宅街の片隅で、美禰子さんが歩いているのを見かけた。本当に偶然だった。
柔らかにクラクションを鳴らすと、美禰子さんははっと車道側に目を遣り、営業車に気が付いた。僕は路肩に車を停め、窓を開けた。
「古内さん。お出かけですか」
言ってから、余計なお世話だな、と思った。トレンチコートを着た美禰子さんは、車に近寄ってきた。
「こんにちは。病院に、行くんです」
「野崎病院?」
「ええ。これからバスで・・・」
次の取引先とのアポまで、まだ時間があった。
「送っていきますよ。乗って下さい」
美禰子さんは一瞬躊躇う顔をしたが、ハンドバッグを持ち直し、助手席に乗り込んだ。
野崎病院へは、山手へ上って20分くらいの距離だった。美禰子さんとは、ほとんど会話しなかったが、僕はふたりの空間が出来たことに満足していた。
カーラジオには控えめな音楽が流れ、美禰子さんの髪から、彼女の雰囲気にそぐう清潔な花の香りがしていた。
❄ ❄ ❄
【何しに仕事に行ってるのか】と誰かに言われても仕方がない。けれど、社内で恋愛する場合は、皆同じようなものではないか?
不器用な僕は、プライベートや、年齢すら訊けないままでいた。それでも、どうにかして美禰子さんの背景を知り、距離を縮められないか思いあぐねていた。
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きっかけは、思わぬときに訪れた。
美禰子さんが、またしなやかなポーズで目薬を差していたのだ。
「・・・古内さん、ドライアイなんですか?」
僕は営業スケジュールをパソコンに打ち込みながら尋ねた。美禰子さんは目をぱちぱちさせて、目頭をハンカチで押さえた。
「あら、この目薬・・・これは、アレルギーに効くものなんですよ。時期的に、そろそろ気になり始めて」
「花粉?」
「そう。ひどくなると、目の縁が痒くて堪らなくなって、腫れ上がるんです」
「それは大変だ」
「あまり腫れると、サングラスをかけて誤魔化すんです。滑稽でしょう?」
おどけた口ぶりに、その姿を想像して笑った。ほぼ【隙】のない美禰子さんの、いつもと違う一面を感じて、僕はつい、口から言葉を発した。
「―――古内さん。今度、食事に行きませんか?」
「え・・・」
美禰子さんは椅子をこちらに向け、困惑顔をしていた。
「あ―――いや、忙しいなら、いいんです。
突然申し訳ない・・・、ご家族が、いらっしゃいましたっけ?」
脈絡もなく誘ってしまったことに慌てて、僕は火を揉み消すように言葉を重ねた。
美禰子さんは、僕を長い間見つめていた。
そして、小さな声で答えた。
「家には、誰もいません。
ずっと・・・」
▶Que Song
無造作紳士/Jane Birkin
【Continue】
こちらの創作題からインスパイアされて執筆しております。
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🟠創作題
— 創作題 (@sosakudai) February 22, 2025
「美しい嘘」
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近日中に後篇を書き足して、完成させてまいります。
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