アダルトチルドレン卒業ヒストリー⓪「プロローグ」私がしてもらった子育て
私は私として生まれてきて良かった。
今こそ堂々とわたしを生きる明るい未来へ。
自分を生きてこれなかったアダルトチルドレンママが
本来の「わたし」を取り戻し幸せマインドで望みを叶えながら
生きるセッション。
アダルトチルドレン応援コーチング
メンタルコーチakiです。
わたしの絶望だらけの暗黒時代から
心の自由を取り戻し、
等身大の自分のまま輝いて生きていくまでを
書き記すシリーズ。
今、辛さの渦中にいる方や
もう生きづらさをなんとかしたいと願っている方。
いいかげん本来の私として自由に堂々と笑顔で生きたい。
自分の魅力や強みで収入を得ることをしたい。
何が起きてもしていても
私だから大丈夫、幸せ。って思いたい。
生まれてきてくれた子供と笑顔で幸せな時間を過ごしたい。
そんなママへ生きるためのヒントや勇気になれたらな、と
わたし自身もここまで自分の本音を書くのは
怖いですが挑戦していきます✨✨
このnoteのブログから
誰かの「勇気」「生きる力」「私の仕事を知る」
きっかけになれたら嬉しいです。
では、はじめていきます。
今日は、「0日目」
プロローグ
〜わたしがしてもらった子育て〜
1974年生まれ。
三姉妹の長女として真面目に育ちました。
いつも、人の役に立ちたいと幼少期から思って生きてきました。
アダルトチルドレン。
毒親。
色々な表現がありますが、
今のわたしは自分の親は「毒親」だとは思っていません。
親も自分も誰も悪いとも思っていません。
今も、親が大切です。
たまたま、親がしたい子育てと
わたしが求めているものの組み合わせで
自分がアダルトチルドレンの生きづらさを
経験したのだと、今は確信しています。
暖かい家に住まわせてくれたし、
動物園に連れて行ってくれたり
服を作ってくれたり。
母は料理がうまく美味しいご飯を作ってくれたり。
これ食べたい、と言ったら作ってくれました。
そろばんを習わせてくれたり。
参観日に来てくれたり。
一般の家庭でもしていることも
与えてくれていましたが、
一方で家に帰ると
批判と否定と責めと支配といつキレるかわからない緊迫感。
自分の意見を言ってはいけない。
気に入らないと無視。
支配とコントロール。
母の役に立てていない自分への罪悪感。
生きてることへの罪悪感。
母の期待通りになってないのではと不安でがんじがらめで、
家の中では私の存在を認めてくれない(そう感じていました)
母親に対してものすごく恨んでいました。
幼少期から、大人になっても
いつも頭の中に母親がいて私を怖い目で見張っている。
正直、一生苦しんでくれ、とさえ思っていました。
私自身は、一生死ぬ瞬間までこの苦しみから逃れならない。
とも思っていました。
そんな本音を考えること、
出すことすら許してはいけない。
親を大事にしていない自分はダメな人間だと
自分を責めていました。
私はただ、ありのままの私を受け入れて
よしよしってして
笑顔の母親と一緒に
笑い合いたかっただけなのに。
大好きな母親に幸せに笑顔でいてほしかっただけ。
今思えば、親の与えたかった愛と
わたしが受け取りたかった「愛の形」が
違っただけなんです。
親は、ちゃんと親の与えたい愛をわたしに与えていました。
でも、そうは言っても親がしてくれた子育ては
わたしにとっては辛いものでしかなかった。
わたしが経験したのは
◉過干渉
心の中、奥底まで入ってきました。
自分の気持ちを言わないと、「言いなさい!」と
責められ罵倒されました。
Aさんじゃなくて、
Bさんと友達になりなさいとか、いろんなことに干渉してきました。
◉過保護
どこまでも先回りして、母親がOKな範囲の中でしか動けず
支配されて怖さでいっぱいでした。
受けたい高校がありましたが、
落ちたら困ると別な高校にしなさいと毎日毎日
言われつづけ「この人に私の話は一切通じない」と諦めた
◉わたしの話は無視
あのね、学校でこんな嫌なことがあったんだ。
そういうと
「自分が小さい頃はこうで、ああでもっと大変だった」と
自分の苦労話が始まり、最後には
「大変だったね」とわたしが慰めて終わり。
◉わたしの気持ちは完全無視
わたしは黒曜石が大好きで心の拠り所で集めてました。
学校から帰っていつものように大好きな石を眺めようとしたら、
ない。
「あんなもの捨てたよ。それより勉強しなさい」
◉支配
何をしても、母親の許される範囲でしか
言葉も心も行動も自由になりませんでした。
ある日、テレビでロケットの打ち上げを見てかっこいい!
女の人でも挑戦できる世界。宇宙飛行士になってみたい!
と買い物から帰ってきた母親にワクワクしながら
伝えたら
すごい勢いで「あんたにできるわけがない。
何を言ってる。そんな夢持つんじゃない」
「バカじゃないの」がっかりしました。
◉偏った価値観
「ドラえもんは、みてはダメ。
〇〇ちゃんみたいに頭が悪くなる」
ドラえもんを初めてまともにみたのは、
小学6年生になってから。
1年生になった1番したの妹がドラえもんを見始めたのです。
他にもみてはダメな番組があり、
6年生まで当然周りの人と話が合いませんでした
◉条件付きの愛、見捨てられ不安
〇〇しないと、〇〇してあげない。
〇〇しないと、もう知らないからね。
橋の下に捨ててくる。
幼少期から暗くて寒い外に一人出される。
ご飯を食べるのが遅い、
自分の意見を言うこと
母の意見に従わないこと
家の話を他人にすることは
自分の命がなくなる怖さでいっぱいでした。
◉ため息と否定と罵倒の嵐
お姉ちゃんだからできて当たり前。
やって当たり前。
Akiが悪い。
どうしてこんなこともできないんだ。
Akiは、本当にダメだね。
ちゃんとできないあんたを、絶対に許さないからね。
夜遅くまで説教が続いた日もありました。
◉父親と父親の家族、親戚の批判
いつもいつも、文句を言っていた。
自分がいかに可哀想かを話していた。
その度に母を慰めるのは私の担当。
◉イライラしたら感情で怒る
いつキレるかわからない。
いつも母親の顔色を伺い
怒られないように必死でした。
◉「うちにはお金がない」
お金がない、が口癖で何をするのでも
わたしの気持ちより
「お金が第一条件」でした。
ある日両親がお金のことで大喧嘩して
「早くこの家からでなくちゃ。生きていたら迷惑」
「生きててごめんなさい」
「お金がないと、家族がやばい」
と怖くて部屋で1人で震えて泣きました。
お金のブロックが大人になっても続き、
やりたいことをやる前から諦めたり、
居酒屋では一円単位で割り勘したり、
起業したてのころは講座をしても
サポートをしても
お金をいただくことができませんでした。
◉高い理想と期待に応えなさい
等身大のありのままのわたしではなく、
母親の理想を叶えなさい、と育てられました。
いつも理想に届かず、罪悪感でいっぱいでした。
◉外と家の中の顔がまるで別人
家の中で起きてることは、
「絶対に言ってはいけない」ことでした。
友達に、うちの家は厳しい。自由がない。
と伝えたら、その友達の母親から、
私の母親に伝わり、
「私にはじをさらすきか」とものすごく怒られました。
怖すぎました。
誰にも自分の気持ちを言ってはいけないと思いました。
◉姉妹間、友達、他の家と比べる
「〇〇ちゃんはできてるのに、Akiはどうしてできないの」
「本当にダメだね」
常に何かと比較されていました
◉共依存
母親は私にだけ、愚痴を言いました。
私もそんな母をもっと大事にしなくてはと顔色を伺い、
どんな話をしたら喜こんでご機嫌でいてくれるかを探るのに必死でした。
母を怒らせたくなかったし、幸せにしたかったのです。(これが依存でした)
◉罪悪感をうえつける
「あんたのためを思って言ってるんだよ!!」
「誰のためだと思ってるの」
「全部、akiのためなんだから」
「誰のおかげで生きていられると思ってるの」
本当にごめんなさい。と
いつも親の期待に応えられなく、足りない自分を責めました。
特にわたしが小学1年生から6年生の間が
1番母の機嫌が悪くこのような経験をしたと
記憶しています。
とにかく母がいる時間は
ただただ、毎日が緊張と恐怖でしかなかったです。
特に3、4年生は泣きながら毎晩寝ました。
おねしょも6年生まで続きました。
普通の家庭が羨ましい、憧れる。
でも、そんなことすら考えてはいけない。
毎日が絶望でした。
次回は小学一年生の夏。
①「青空に誓った願い」です。
つづく
いつも最後までお読みくださり、ありがとうございます😊
自分を生きてこれなかったアダルトチルドレンママの
幸せ作り&望みを叶える
自分も人生も開花する
メンタルコーチaki