スマブラステージ【AD.1983.ファミリーコンピュータ】
1983年に発売された、家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータ(ファミコン)と、ゲームソフト第一弾の「ドンキーコング」を描いたスマブラステージです。
テレビ画面内のドンキーコングに踏みつけられると、ダメージを受けるギミックを搭載しています。
・ビデオゲーム(コンピュータゲーム)の誕生
コンピュータを使って、画面に映したものを、プレイヤーが操作して遊ぶ、ビデオゲームはいつ生まれたのでしょうか。
1947年にトーマス・ゴールドスミス.Jrとエスル・レイ・マンが作成した、陰極線管娯楽装置(Cathode Ray Tube Amusement Device)は、照準を動かして敵戦闘機を射撃するゲームで、現在発見されている中で最古のビデオゲームとされています。このゲームは、特許は取られたものの、販売はされませんでした。
その後、大学や研究室に設置されたコンピュータを使って、ビデオゲームが作られるようになります。
1958年、レーダーを研究していた、アメリカ・ブルックヘブン国立研究所で、研究成果を地元住民に親しみやすく説明するため、オシロスコープを使って、テニスを模したゲーム「テニス・フォー・ツー」が製作されました。
このゲームは研究員や大学生ではない、不特定多数の人が遊んだ初のビデオゲームで、プレイを待つ人が何時間も行列を作るほど人気だったと言われています。
・ビデオゲームの商業化
1962年に、マサチューセッツ工科大学に設置されていたコンピュータPDP-1で、2人で対戦するシューティングゲーム「スペースウォー!」が製作されます。
学生の時にこれを見ていたノーラン・ブッシュネルは、スペースウォーを基にして、アーケードゲーム「コンピュータースペース」を開発、1971年10月に販売しました。これが世界最初の商業用ビデオゲームだと考えられていますが、売れた台数は数十台でヒットには至りませんでした。
1972年9月に、アメリカのマグナボックス社が、テレビに画面を出力して遊ぶ、最初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」を発売しました。動かせるのは四角形の光のみで、テレビに静電気で張り付くフィルム(オーバーレイ)を付属してゲームを補いました。値段は100ドル(およそ31000円)でした。
先ほど登場したノーラン・ブッシュネルは、ゲーム製作会社「アタリ」を立ち上げ、オデッセイに収録されていた卓球ゲームをアレンジしたアーケードゲーム「PONG(ポン)」を、1972年11月に販売します。ポンは商業用ゲームで初となる大規模なヒットを達成して、約1万台を販売し、他社からはポンの類似品も大量にリリースされて、ビデオゲームの筐体(アーケードゲーム)は普及していきました。
・ビデオゲームの拡大
以降、ゲーム産業は拡大し、日本でもゲームが開発されるようになります。
アーケードゲームでは、1976年アタリの「ブレイクアウト」(ブロック崩し)、1978年タイトーの「スペースインベーダー」、1980年ナムコの「パックマン」などが世界的に人気となり、ゲームセンターは活況に包まれました。
日本では、スペースインベーダーの大ブームによって、インベーダーの筐体だけを集めたインベーダーハウスが全国に建てられ、これらがゲーム筐体を揃えたゲームセンターに発展していきました。
ゲームセンターの人気ゲームを、家庭でも遊びたい需要が生まれ、テレビで遊ぶ家庭用ゲーム機、ゲームが遊べるパーソナルコンピュータ(ホビーパソコン)が次々と発売されます。
1975年に、アタリが、ポンを遊べる家庭用ゲーム機「ホーム・ポン」を発売して以降、70年代中頃には、ポンをアレンジしたテレビゲームが、様々なメーカーによって大量に発売されました。
日本初のテレビゲーム機は、1975年9月のエポック社の「テレビテニス」で、70年代後半にはポン風ゲームを基本としつつ、射的やレースゲームなども遊べるテレビゲーム機が発売されるようになり、ゲームが多様化して行く流れができました。
アメリカでは、1976年8月に、ゲームソフトをプログラミングしたロムカセットを差し替えて、遊ぶゲームソフトを交換できる初のゲーム機「フェアチャイルド・チャンネルF」が発売されました。
翌1977年9月、アタリが発売した「ビデオ・コンピュータ・システム(後にアタリ2600に改称)」は、サードパーティ(アタリ以外の会社)が、ゲームソフトを開発・販売することが許可されたことで、多様な会社がアタリ2600のソフトを発売し、アメリカの家庭用ゲーム機産業は急拡大しました。
アタリ2600では、スペースインベーダーやサーカスなどのアーケードゲームが移植され人気を集めましたが、パックマンの移植は不評でした。
ホビーパソコンでは、アーケードゲームの移植に加えて、プレイに長い時間がかかる、アドベンチャーゲームやロールプレイングゲームが発展します。
・カードメーカー任天堂
1889年(明治22年)、実業家の山内房治郎が、セメント屋を営むかたわら、花札を製造販売する「任天堂骨牌」を創業しました。1902年(明治25年)からそれまで輸入品だったトランプを国産化します。任天堂の作るカードは、品質が高く、全国の煙草屋で販売されたことで、任天堂は日本有数のカードメーカーとなりました。
(花札は、戦国時代に日本に持ち込まれた、ポルトガルのプレイングカードが日本で変化したもの。トランプは明治時代初期に、英米式のプレイングカードが日本に持ち込まれて定着したものです)
1949年(昭和24年)に3代目社長に山内溥が就任します。
1953年に、紙より丈夫なプラスチック製トランプを発売。さらに、ディズニーのキャラクターが描かれたトランプを作り、トランプのゲームのルールブックを同梱することで、当時は大人が博打で遊ぶ物だったトランプを、子供と家庭の娯楽として普及させることに成功します。
1960年代、トランプのヒットで事業を拡大させた任天堂は、タクシー業や食品製造など多様な業種に参入しますが、利益は出せず、主力のトランプの売り上げも落ち込み始めます。
技師の横井軍平が、仕事中の暇つぶしで作ったマジックアームを「ウルトラハンド」として発売して、よく売れたことを契機に、任天堂はアイディアを効かせたオリジナルの玩具を作るようになります。
ピンポン玉を飛ばすピッチングマシンや、家庭用の綿あめ製造機、安価なコピー機「コピラス」など、様々なものを発売するなかで、1970年に太陽電池を応用した銃の玩具「光線銃SP」シリーズが人気を集めました。
(先述した最初のテレビゲーム機オデッセイには、任天堂が製造した光線銃が同梱されていました)
光線銃を応用して、大型レジャー施設で、スクリーンに映したクレーを射撃する「レーザークレー射撃システム」が企画されます。が、1973年の石油価格高騰(オイルショック)の影響で、建設予定は相次いで中止となり、任天堂はかつてない負債を抱えることになります。
・任天堂とビデオゲーム
任天堂が初めて発売したビデオゲームは、1977年7月発売された、ポンをアレンジしたゲームが遊べる「カラーテレビゲーム15/カラーテレビゲーム6」で、機能を削った6を赤字前提の安価(9800円)にして客の注意を引いて、値段が高くて豪華な15(13500円)を売り出す戦略で、ポンが遊べるテレビゲーム機の中でも高い人気を集めました。
1980年4月に、電卓用の液晶を使った携帯型ゲームの「ゲーム&ウオッチ」を発売します。これが飛ぶように売れたことで、任天堂は巨額の負債を返済することができました。
負債を抱えていたころの1974年、任天堂は光線銃を使ったレジャー用設備を小型に作り直して、「ワイルドガンマン」をリリースしたのを皮切りに、アーケードゲームを作るようになりました。
1978年には、ビデオゲーム筐体も作られるようになり、最初期はインベーダーやブロックくずしの亜流ゲームでしたが、次第にオリジナルのゲームが作られるようになります。
そして、1981年7月に、マリオが初めて登場したゲーム「ドンキーコング」がリリースされ、大きなヒットとなりました。
「ドンキーコング」と続編「ドンキーコングJR.」は、ゲーム&ウオッチ版も作られた他、海外の家庭用ゲーム機、アタリ2600、インテレビジョン、コレコビジョンに移植され、好評を得ました。
任天堂はコレコビジョンの日本での販売権を得ようとしますが、コレコ社との交渉はまとまらず、自社でカセット入れ替え型家庭用ゲーム機の開発を始め、これがファミリーコンピュータ(ファミコン)になりました。
・ファミコンの登場
1983年7月に発売されたファミリーコンピュータは、アーケードゲームのドンキーコングをそのまま遊べるテレビゲーム機を目指して開発され、当時の家庭用ゲームとしては緻密な絵を、素早く滑らかに動かすことが可能で、当時のゲーム機では珍しかったBGMを鳴らす機能がありました。
当時のホビーパソコンは8万〜20万円くらいの値段で、ファミコンは、ゲームに使う以外の機能を削りに削って、定価14800円で販売されました。
これでも子供向けの玩具としては高い値段でしたが、性能の高さと、月に1本以上のペースでソフトが発売されたことで、人気を獲得していきました。
ゲームソフトは最初は任天堂のゲームのみでしたが、1984年7月からハドソンやナムコのような、サードパーティからもソフトが発売されるようになり、ソフトが増えてきたところで、1985年9月発売の「スーパーマリオブラザーズ」が爆発的なヒットとなり、ファミコンの人気は決定的なものとなりました。
1985年10月からはアメリカで、ファミコンをベースにした「Nintendo Entertainment System:略称NES」が発売され、ヨーロッパ、オーストラリア、台湾、韓国でも販売され、ファミコンは世界中に普及していきました。
ファミコンのカセットは容量が少なく、データをセーブできない欠点がありましたが、パスワードを使ったコンティニュー、磁気ディスクを用いた周辺機器「ファミリーコンピュータ ディスクシステム」、カセットの大容量化、カセットに電池を組み込んでデータを保存するバッテリーバックアップ等によって補われて、パソコンゲームで人気があったアドバンチャーゲームやロールプレイングゲームも作られるようになります。
周辺機器の中には、電話回線を使って、株の売買や、馬券の購入ができるものもありました。
20世紀後半にビデオゲームは熱狂的な盛り上がりを見せましたが、70年代のインベーダーハウスは、画面を見やすくするために照明が薄暗かったので、非行や犯罪の温床なると考えられたり、ゲーム&ウオッチやファミコンのソフト欲しさに盗みを働く者がいたり、ゲームのやり過ぎによる子供の寝不足、目の疲労などの健康被害が憂慮されるなど、一部で社会との軋轢も生じていました。
それでも、数十年遊ばれるうちにビデオゲームは文化(人間の生活の一部)となり、2003年にファミコンの生産が終了した後も、互換機やエミュレーションによって、ファミコンのゲームは遊ばれ続けています。