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ワルシャワ滞在雑記3

無事帰国し数日経った。行きと同じようにイスタンブールで無料ツアーに参加し、クッションの時間を挟んだおかげか時差ボケはかなり抑えられている。
昨日、留守中にベランダの植物の世話を頼んでいた友人と食事に行ったのだが、37℃を記録する気温の中「今日は秋みたい」というどう考えても感覚が麻痺してしまった哀れな発言に吹き出しそうになった。しかし確かに、飛行機から降りた時、構えていたほどの熱波は感じず、こちらの暑さに全てのやる気を削がれるのではないかという懸念も今のところは杞憂に終わってくれそうな気配である。向こうでできるだけ筋トレしていたので体力がついてくれたのかもしれない。

さて、それでは前回のように写真とGoogleマップのタイムラインを参照しつつ7月8月の振り返りをメモしていきたい。


7/1
写真なし、家から出た形跡もなし。多分床の修繕と家の大掃除をしていた気がする。通販番組でたまに見る高温スチームモップ、あれがあるのだが夫が掃除機をかけた後、私がモップを全体にかけるという流れが毎度の滞在で定着した。あの道具はすごい、ワンフロアごとに真っ黒な雑巾が出来上がる。謎の達成感があるので苦ではない。

7/2
猫の写真。ぐうたら寝る猫の前脚の具合がちょうど良く、ペットボトルを抱かせてみた。特に文句も言われずそのまま抱いていた。この日も家でゆっくり過ごしたらしい。

ひんやりしてて嫌じゃなかったのかも

7/3
猫と戯れる夫と義母。3匹いるうちの黒猫は特に義母にベタベタで、義母がキスをするとものすごい音で喉を鳴らしながら力強く擦り寄っていく。二人でべちょべちょという表現がピッタリなほど湿っぽい愛を交わしていて、それをみて毎度家族が呆れながら笑っている。

恍惚の表情を見せる黒猫

7/4
夫の友人たちとワルシャワ要塞(Cytadela Warszawska)内にあるいくつかの博物館を巡った。ワルシャワ要塞は1830年の11月蜂起を受け、1832年〜1834年にかけてロシア帝国によりポーランドの反乱を抑えるための拠点として建設された。ロシアの支配の象徴の跡地に、ポーランドの独立を象徴する施設をぶつけるという思惑か、以前は別の場所にあったポーランド歴史博物館とポーランド軍事博物館がこの城塞内に2023年、新たに開館した。歴史博物館の方は建設がまだ完了しておらず、一角だけ開いていた展示は見ずにホールの様子と屋上からの景色を望んだのみだ。

新設されたポーランド歴史博物館
ホールの吹き抜け
屋上庭園からワルシャワ中心を望む

ポーランド軍事博物館もまだ全ての展示室の準備が整っておらず、今後順次公開していく予定らしい。こちらは10世紀から第2次世界大戦までの約1000年に渡る軍事関連資料を展示している。ピャスト朝ポーランド王国創始者ミェシュコ1世の時代から、周辺国と基本的にずーっと戦っている歴史を見て、大陸は本当に大変だな、地続き嫌だな、と島国出身者としての思いを禁じ得ない。3Dプリンターで作成したのだろうか、やたらリアルな馬と王様、兵士に見下ろされながら、甲冑や槍、剣などのゾーンを抜け、馬が戦車に変わっていき、槍や剣が見慣れたライフル、手榴弾に変わっていく。基本的に武器や軍服、戦争遺物の膨大なコレクションの羅列なのだが、近代以降の戦いが(主に自由を求める各時代の蜂起において)兵士のみならず市民参加にも及んでいく様子を観察できる。どでかい戦車の横で笑顔で記念撮影をする家族連れを横目に、なんとも言えない微妙な気持ちになる。終盤のワルシャワ蜂起のセクションでベンチに座りながら、夫の友人たちからは神風や回天の話題などを振られ、広島長崎の話、ウクライナ、ガザの話をつらつらとした。

新設ポーランド軍事博物館
最初にお馬さんがお迎え
一際異彩を放っていた、ふくよかな方向けの甲冑
19世紀、女性たちは喪服を着用しロシア支配への抵抗を示した
戦車、戦闘機の展示が続いていく
ワルシャワ蜂起中の市街地の再現

その後は同じく要塞内の一角に位置するカティン博物館へ。「カティンの森事件」をご存知だろうか。第2次世界大戦中、ソ連により22000〜25000人に上るポーランド人が、スモレンスク近郊に位置するカティンの森の中で虐殺された。軍将校や聖職者、官吏、学者、芸術家など、ある意味で知的階級に属する人々が多く殺害されたため、こうした人材の喪失は戦後の復興にも大きな打撃を与えたと言われる。展示を見ていくと、現在のウクライナで何が起きているのか、ロシアが何をしようとしているのか、ソ連時代とのその手口の変わらなさに呆然とする。今回の戦争が起きてまもなく、改めてアンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」をAmazonプライムで見直した。学生の頃とは物事の背景理解の解像度が大きく変化していたため、最後まで観るのが非常に辛かったのを覚えている。知識のあるなしで、映像作品に対する感じ方がこれほど変わるものなのかと驚いた。博物館地下では虐殺現場から掘り起こされた遺品の数々を目にすることができる。手作りのスプーンやフォーク、端材で作った不恰好なチェスなど、これらの持ち主が、なんの変哲も無い素朴な人々が、家族のもとに帰れなかった事実を改めて考えさせられる。博物館を出た後は要塞の壁に沿って穏やかな小道が現れる。虐殺された人々の職業が刻まれた石碑の並ぶその道を抜けると、カトリック、ユダヤ、東方正教会などのシンボルがあしらわれた壁が見えてくる。氏名の判明している犠牲者名墓碑のコーナーだ。各宗派ごとにまとめられ、そこにイスラム教徒のセクションが用意されていたことも印象的だった。タタールの人々だろうか。確実に犠牲になっているであろうが、氏名は判明していないのか、その碑にはまだほとんど名前が刻まれていなかった。

Sentinel Forestと名付けられた正方形の小さな森を抜けていく。
長年隠蔽されてきた事件現場を象徴し、
並び立つ木々は監視する兵士たちになぞらえているらしい。
博物館の入り口の明るさと対比して隠された陰と真実の光を表す導入部だ。
博物館入り口。悲痛さを感じさせるオブジェ。
写真外左には収容者を輸送した列車を模したオブジェもある。
入ってすぐのスロープの壁には連行される人々の影が映され、
一緒に展示室へ向かう演出がされている。
収容されるまでの人々の暮らしの様子や、
虐殺後の隠蔽にまつわる様々な資料が展示されている。
地下の遺品陳列コーナー
手作りのチェス
不在者の道と題された小道。
カティンの虐殺の犠牲者たちの職業名が刻まれた数十本の石柱の前を横切るたび、
戦争でポーランド国民が被った計り知れない損失を実感する。
銃殺された犠牲者を抱くカティンの聖母
宗教宗派ごとの追悼の場。
ユダヤ、東方正教、カトリックに並びイスラム教徒の犠牲者も。
意識していなかったので立ち止まってしまった。

ワルシャワ要塞を出て、続いてFabryka Norblinaというショッピングセンターに連れて行かれた。有名な銀食器の工場跡地に作られたモダンな商業施設だ。その一角でVR体験イベントがあるという。何も知らされず到着すると、ワルシャワ蜂起の実写再現VR体験というとんでもない代物が待ち構えていた。生存者の語りをベースに、映画さながら若き青年のワルシャワ蜂起中の戦いの1日を当事者視点で体験できる。冒頭の解説映像では、実際の蜂起の生き残りの老人たちがゴーグルの使い方、このストーリーの背景などを説明する。VRゴーグルを抱えた老人というなかなか衝撃的な絵面に圧倒されつつ始まった作品では、瓦礫の山と化したワルシャワ市内を仲間と共に地下水道に身を潜めつつ進み、途中で仲間の死体を発見したり、ドイツ兵に捕まったり、目の前で捕虜市民を遊び半分に銃殺されたり、隙を見て逃げ出したり、手榴弾が飛び交い爆発しまくる中、狙撃されたリーダーを抱えて逃げ惑ったり、を、実写で、VRで、つまりとんでもないリアリティを伴って見せられるのである。息を呑む描写がわずか15分ほどとは思えない濃密さで次々と展開された。ドイツ兵に見つかり地下水道から引きずり出され、ヘラヘラとした嫌な笑みを浮かべたドイツ兵のアイスブルーの瞳に真正面から見つめられるシーンがあるのだが、本気でゴーグルを取りたいと思った。凄まじい嫌悪感だった。そいつに手回し蓄音機を押し付けられ、ワルツを鳴らす係にされるのだが、横一列に並べられた捕虜市民の中から若く美しい少女が引っ張り出され、そのドイツ兵と踊らされる。恐怖に固まりながら逆らえず従う少女とくるくる愉快そうに踊り、物陰に回ったかと思った瞬間乾いた銃声が響き、ご機嫌のドイツ兵だけが躍り出てくる。映画では見慣れた展開だろうか。そうだろう、多くの戦争映画の演出は事実に基づいて描かれているのだ。私たちが創作物として消費している残酷なシーンは、実際にそれを目にした人々がいるから存在しているのだ、という、忘れがちな事実を思い出させる映像体験だった。VRとスクリーンではここまで肌感覚が変わるのか、と戦慄した。オシャレなショッピングモールの夏休みに合わせた催しとしてこうした本気の戦争体験の継承企画が提供されている。これが、平和ボケしていないということなのか、戦争が過去の遠いものではない地域の感覚なのかと、衝撃の連続だった。(またポーランドは映画制作の質の高さでも知られるが、映像作品として、役者の演技も素晴らしいものだった。後日詳細を調べてみると、VR Heroes社制作、「Kartka z Powstania」(蜂起からのカード)というタイトルで、2023年11月にこの施設で公開された作品だった。ポーランドで初めてVRにより制作された歴史スペクタクルであり、国内外で多数の賞を受賞しているという。詳細は以下のリンクより)
https://fabrykanorblina.pl/kartka-z-powstania-w-fabryce-norblina-upamietni-79-rocznice-wydarzen-1944-roku/

人が人をどう人扱いせず虫けらのように殺せるのか、簡単に殺されてしまうし、殺す側にも簡単に行けてしまう人間に、自分達にどう向き合えばいいのか、重たい余韻の残る日中の体験であった。

夜は打って変わって、博物館を共に回った友人たちと別れ、今度は夫の親友夫妻とその妻のグアテマラからヨーロッパ旅行に来ていた親族たちと合流し、合計8人という大所帯でとあるライブに向かった。Klub SPATiFという1950年代から多くの文化人が集った歴史あるサロンのライブ会場だ。実験ジャズ好きの夫の親友がファンだという吉田達也氏が武田理沙氏とデュオを組みヨーロッパツアーを行っていた。会場から文字通り溢れる観客、情熱的で刺激的な演奏、私には大変新しい体験だった。
なんだこの1日、詰め込みすぎだろ。

7/5
昨日夜のメンバー(旦那親友夫妻、その妻の姉家族3人、私と夫)でMuseum Polskiej Wódki(ポーランドウォッカ博物館)へ。ウォッカ博物館て。あるんだ、いやまああるかそりゃ。
親友妻「英語ツアーもあるし、試飲もできるらしいよ!」
さようか。君の姪っ子未成年だけどいいのか。楽しめるのかそれ。と不安もありながら、そしてちょうどこの日ワルシャワでMetalicaのライブがあったのだが、街中がとんでも無いことになっていた。どこにそんな潜んでいたの?というほど、どこに行ってもメタリカTシャツを身に纏った人々が闊歩しているのである。そしてちょうど、我々の向かうウォッカ博物館が入っているCentrum Praskie Koneserという商業文化施設の一角にメタリカのポップアップストアが設けられていたため、社会主義時代に懲りて行列が嫌いなはずのポーランド人が、敷地外にまで及ぶほどの見事な大行列を成していて、同行のグアテマラ家族も目を剥いていた。
そしてウォッカ博物館、ウォッカ工場の跡地に作られたもので、その歴史、製法、種類などをガイドの説明と共に見ていく。が、展示品はあまりなく、ほとんどがディスプレイで文字を読ませたり、プロジェクターでアニメーションを見せたり、というポーランドの博物館あるあるが遺憾無く発揮されている施設だった。やっぱり何か現物をもう少し見せる努力もしてほしいところだ。試飲はなかなか、味の違いが強烈で驚いた。私以外は皆酒豪の遺伝子を持つ人々なので大いに難なく楽しんでいる様子だったが、私はまずグラスを持って揮発したアルコールが目にしみて悶絶するところから始まった。味見のできない14歳の姪っ子ちゃんとつまみのナッツをシェアしつつ、匂いを嗅がせたりしてやべーなと盛り上がったが、この子もあと数年すれば余裕で強い酒をガッツリ煽るレディに成長するのか、と思うと少し切なくなった。

博物館入り口のディスプレイ。もちろん全部ウォッカ
歴史解説をしてくれるガイドのお兄さん
アニメーションじゃなくて
機械のレプリカでも置くのはどうなんでしょうと思いながら話を聞く
とりあえずたくさんのウォッカ。各銘柄の面白エピソードなども教えてくれる。
お金がない時代にコンサートに来てくれた
外国アーティストへウォッカ何年分、をギャラの代わりに渡したとか
さらっとしたもの、強くとろみのあるもの、しかし全部強烈である。
味比べとはいうものの夫曰く
「ウォッカは味わうものではなく、胃にぶち込んで酔うためのものである」
東ヨーロッパこわい

7/6
家でゆっくりの日。床の修繕や処理しきれていなかった大量のりんごをひたすら剥いていたらしい。

後ろに型が準備されているので
Szarlotka(シャルロトカ)というりんごのケーキを焼いていたようだ

7/7
庭でBBQ再び。Kiełbasa(ケウバサ)と呼ばれるソーセージを盗みたい猫。

義父が席を立った瞬間の犯行

7/8
外出の形跡も写真もなし。床の修繕を継続していたか。

7/9
前回行けなかったX Pawilon Cytadeli Warszawskiej(第10号棟博物館、独立博物館分館)の展示を見るため再びワルシャワ要塞へ。1833年から刑務所、監獄として使用され、多くの革命家や運動家たちが政治犯として収容、処刑された。

1月蜂起の反乱軍の制服。農具を改造した武器でロシアの支配に抵抗した。
『ヨーロッパとの別れ』Aleksander Sochaczewski
画家自身もシベリア流刑者で当時の様子を数多く描き残しており、
博物館の後半は主に彼の絵画作品で埋められている。流刑者は頭を半分剃られている。
女性たちは家族である流刑者と離れ離れになることを厭い、同行した者も多いという。
独房の窓には目隠しがされ、わずかな空だけが見える。
第10号棟博物館へ続く道に、今もワルシャワ市内を向くロシアの大砲。
この写真の手前側には収容者が処刑場まで移動した「死の道」も示されている。

ヴィスワ川を望む要塞の正面には多くの十字架が立っている。19世紀から20世紀にわたりここで独立と自由のために戦い命を落とした無数の人々への弔いだろう。レンガと鮮やかな緑が映えるこの場所で筋トレに励む男性がいて、平和でとてもいいんだけどギャップすごいなーと思った。

正門への階段両脇に並ぶ十字架
Brama Straceń
死の門
Za wolność waszą i naszą
あなたの、私たちの自由のために

7/10, 7/11
家で過ごしたり、ホームセンターやショッピングモールで細々したものを買い出ししたり、床の修繕をしたり。

7/12
夫と夫親友の高校時代の共通の友人に、ウルグアイとポーランドのハーフの人がいる。(といってもそのウルグアイ人のお母さんの祖母がポーランド人らしいので、ポーランド比率どうなって。。?と計算が難しい)親が外交官だったため幼少期より世界中を転々とする生活だったらしいのだが、最近自分の中のラテンの血に目覚め、ラテンコミュニティに安らぎを感じているという。夫親友のグアテマラ妻をワルシャワのラティーノコミュニティに紹介しよう、という誘いが、なぜか我々夫婦にまでおよび、ポーランド人とラテンの人々の中に突如無関係な日本人がぶっ込まれるという謎会合が開かれた。Macondo Restauracjaというラテン料理専門店で、ラテン音楽の生演奏付き。もちろん酒が進めば踊りに行く。ウルグアイ友人から幾度となく注がれる「踊るか?行くか?来るか?」という圧を必死に固辞し、同じく所在ないポーランド人勢(夫、夫親友)と、久しぶりのスペイン語制限なしという状況にはっちゃけるグアテマラ妻が溌剌とするさまを見守った。ウルグアイ友人の会社の部下のラテン系の人々とその親族が集まったのだが、お店の人々と大いに踊りまくり、大合唱する熱気溢れる空間に、ただただ気圧されるばかりだった。夫と夫親友にとって、ウルグアイ友人は共にハードロックやメタルを聞く陰鬱な10代を過ごした同士である。それが見たこともないような陽気なファミリアの雰囲気を全面に発しラテン音楽に合わせ踊り狂っている。俺たちの知ってるあいつじゃない、、と少し寂しそうな彼らがおかしかった。しかし複数のルーツを持つということの、人生の簡単ではないさまを考えさせられた。

7/13
床修繕佳境、やられた。

しかも踏んだ瞬間滑ってびっくりしてた

7/14
友人の家へ。最近子猫を迎えたそうで元気いっぱい飛び跳ねるその子にデレデレになりつつピザ食べながら近況報告をしあった。

7/15
家から出た形跡なし。人間が食べ終わった器に残ったヨーグルトを猫が舐めていた。

7/16
ICL手術当日。人生で五指に入るトラウマを得た。まず検査病棟と手術病棟のスタッフの対応が、前者は優しくフレンドリーかつ英語喋ってくれる。後者は冷たくドライ、英語喋ってくれない。言葉はこちらが外国人なのだから問題ないのだが、術前の不安なメンタルに冷たくされると、不安が増大してしまう。検査の担当医からは、手術担当の先生は手術中患者とおしゃべりするの大好きな気さくな人だから大丈夫だよー!英語?多分喋れる喋れる!!と聞いていた。しかし手術室に呼ばれる前に何やら向こうで「あ、外人?え、ポーランド語喋れる?喋れなくね?まじ?」(意訳)のような慌てた会話が聞こえてきて(ふわっと何話してるかはわかる)名前を呼ばれるときも、ファーストネームだけ呼ばれて、苗字を呼ぼうと最初の文字だけ発音し、しばらく沈黙がありもう一度ファーストネームだけ呼ばれて、苗字を読むのを諦められて笑ってしまった(夫婦別姓にしたので私の苗字は日本名のまま)。でも読めるよ、ポーランド語のアルファベットの発音のままで読めるよ私の名前。めっちゃ簡単よ。後日これをポーランド人の友人たちに話したら爆笑してた。
さて手術台、日本の病院の写真などでみるような普通に座って軽く上半身を後ろに倒し頭が空を向くような体勢のものを想像していたら、目の前にあったのは頭のほうがめちゃくちゃ低い位置に傾けられた通常の手術ベッドで、首がかなり苦しくなりながら寝かされる、というスタイルだった。看護師も医師も英語は苦手なようで、一人の看護師が最終確認の「アレルギーある?」をポーランド語で確認してきたのだが、答えようとした瞬間強面の医師の「ポーランド語喋れないって言ってんじゃんよー」みたいな野太い茶化しが入り、周りの看護師も「そうだったー笑」みたいな、当事者置いてきぼりの辛い空気が完成してオウチカエリタイ状態だった。しかもアレルギーの有無の答え聞いてない。無いからいいけど。ここまで来てるということは問題ないから手術するんだけどそりゃそうなんだけど、日本だったらクレーム入りそうな対応だな。。と思いながらされるがままになった。
その後も特にこれから始めますのような挨拶も何もなく、よくわからないまま消毒液を眼球に注がれ瞼が固定され目の前で鋭い何かが調整され麻酔は効いているものの眼球を押さえつけられる感触、何かが刺される感触、何かが入れられてグリグリされる感触の、全てを鮮やかに受け取った。鋭い痛みはないが、鈍痛や不快感、恐怖心はMAXである。視界はぼやけているがずっとあるので、SF映画のサイケデリックに時空が歪むシーンを連続で見せ続けられているような時間だった。時折医師がふんふふーんと鼻歌まじりに作業するのと、BGMが一昔前のダサい気の抜けたポップスなのがものすごく気になった。
永遠かと思われるような20分ほどが過ぎ、両目に無事にレンズが入れられ、痛みと精神的疲労にHPはゼロです状態で薄らぼんやりと見える視界の中、保護カップをテープで乱暴に両目につけられ、仮面ライダーみたいな見た目になり車椅子に乗せられ待合室の夫の元に届けられた。憔悴し切った私を見て夫はとんでもないことを勧めてしまったのではないかと青ざめていた。レーシックとICL、多分レーシックの方が消耗は激しくないかもです。一向に止まらない涙を垂れ流し続け、帰宅後は泥のように眠った。この後4日連続で手術中の映像が夢で繰り返され全く気が休まらない、という状態に陥った。

7/17
術後検診に再び眼科へ。検査医が開口一番「手術生き延びておめでとう」と労ってくれた。手術担当医が話と違って英語できなかったんですが、あと結構乱暴で怖かったんですがと問うと「あれそうだっけ?まああの人軍医だからね、しょうがないかもね」とサラッと流されて、軍医だったの、あとどっちみち話違うやんけ、と笑った。
左目が微妙にピントも合わず痛みもあったのだが、検査では特に問題なし、大丈夫大丈夫!とあっけらかんと早々に帰された。不安は何も軽減されていない。

7/18
家で療養。目に水が入らないように入浴や洗顔をするのが難しい。液晶画面が目に入るとムスカの如く苦しむ。噂のハロー・グレア現象を体験する。以後強い光源が目に対し斜めに入ると二重三重の光の輪が見えるようになった。たまに虹色になる。これを義母に話すと、やべー。。。という顔で引きながら「で、でも綺麗じゃん?」とフォローしてくれた。フォローなのかな。この現象は帰国後の今も継続してある。邪魔になるほどではない。

7/19
少し回復してきたので国立民族誌学博物館へ。やはり導線や展示の仕方に不満を覚えてしまう。量を見せることに終始して、一つ一つを丁寧に観察させようという気がないように思える展示方法で、少し残念になった。日本のもののコレクションも少なくないのだが、日本刀の展示の仕方にはハラハラするものがあった。刃を直接アクリルスタンドに引っ掛けないで…!

7/20
夫と子供時代同じ団地に住んでいた、という友人メンバーで車2台を出し遠出。高速道路から望む景色はさすが平原の国ポーランド、見渡す限り平らである。たまに雄大な風力発電の林を見ることができる。

実際に見るとかなりの迫力

最初の目的地はMuzeum Zamoyskich w Kozłówce、ザモイスキ家というかつての大貴族の屋敷だ。一族の栄華を表す様々な美術品、文化財を見ることができる。赤軍に占領されていた歴史も持つことから、敷地内には国内唯一の社会主義リアリズムに特化した美術館も併設されており、これほどの数のプロパガンダアートに囲まれる日が来ようとは、お腹いっぱいな空間だった。相反する種類の文化財を同時に楽しめる。

クジャクがお出迎え
色とりどりの花々が夏の空気を感じさせる
ロココ調と新古典主義様式の装飾を堪能できる宮殿
シノワズリや伊万里もコレクションに含まれている
ゲーム部屋
レーニンに睨まれる
労働者たち
1600点を超える彫刻、絵画、ポスター作品が収蔵されている
日向ぼっこするクジャクに見送られて去る。
この国フランクにクジャクいすぎでは
誰にでも撫でさせてくれる気前のいい猫もいた

続いて向かった先はNałęczów(ナウェンチュフ)という水の名所。ポーランドでペットボトルの水を買うとここの名前が使われているものも多い。日本での湯治に似た感覚か、体の不調を治す目的でこの水の名所にしばらく滞在し、体に良い水をしこたま飲んで回復を目指す、というリゾート地だ。水の飲み比べもできる。国民的作家シェンキェヴィチの愛した場所としても知られる。

Fontanna na Stawie w Nałęczowie

最後に向かったのはKazimierz Dolnyという、ポーランド東部においてかつて最も重要な都市の一つであった歴史的な街。ヴィスワ川の右岸に位置し、16-17世紀には穀物貿易で繁栄した。19世紀からはその美しい景観から芸術家たちに愛され、今でも市場には多くのアーティストが作品を並べている。

Kamienice Przybyłów
マーケットで一際目立つプシビウフの長屋。
ルブリンの石工たちにより地元で採れた石灰岩を用いたファサードの装飾が特徴的。
13-14世紀に建てられたカジミェシュ・ドルニ城。ロマネスク様式。
城のある丘から望む街とヴィスワ川

7/21
日本の田舎育ちの娘にポーランドという遠い国へ興味を抱かせるきっかけになった画家がいる。Zdzisław Beksinski(ズジスワフ・ベクシンスキ)だ。ネットで3回見ると死ぬ絵などと不真面目な紹介のされ方をしている。こんな絵を描きたいと憧れ紆余曲折あり大学で研究テーマにしようとして挫折したりなんだりしたのだが、今の夫と出会い夫も彼のファンで、しかも彼が住んでいたアパートの超近所に実家がある、という謎の縁に導かれポーランドに来れたし彼のアパート(殺害現場)にも行けたし、故郷のSanokの博物館にも行き墓参りもできた。もう悔いはないくらいに1ファンとしては満足なのだが、この日はなんと最寄り地下鉄にベクシンスキを讃える壁画が誕生しそのお披露目イベントが開催された。ワルシャワの各地下鉄駅のエレベーター外壁には、英雄などの肖像画が同じスタイルで描かれている。税金の使い道のアンケートをとったところ、1700人ほどがこの地下鉄駅にベクシンスキの壁画を、と投票して実現したそうだ。ベクシンスキ作品じゃなくんて、画家の肖像なんですね、というツッコミに、まあ夜そんな絵見たら怖い人もいるでしょうからねえ、と和やかに話す行政の人と壁画制作担当者の会話が聞けるイベントだった。

完成した壁画。
後ろの新しい団地の裏に、彼が住んでいた古い団地がある。
ベクシンスキのドキュメンタリー映像を上映、
その後今回の壁画制作に関わった人々とのトークショーが開かれた。
ベクシンスキの名にちなんだ公共スペースを
今後もこの街に作っていきたいらしい。

7/22
ワルシャワのランドマーク、スターリンの置き土産と呼ばれる文化科学宮殿に、今回ようやく初めて登った。スターリン様式の超高層建築物。国民から大いに嫌われ、創意工夫ある蔑称で親しまれてきた。

外観を撮ってなかったので2019年に撮影したものを。
宮殿からの眺め。
唯一の高層建築だったこの宮殿の存在感を霞ませるように、
近年高層ビルが乱立してきた。
建物の隙間に緑がしっかり残っていることにホッとする。

無骨なスターリン様式建築を改めて間近で見て、やはり綺麗とは形容し難いなと思った。夫は乱立するビル群も、まとまりがなく醜い。。と否定的だった。近代化と景観の難しい問題である。

7/23, 7/24, 7/25
特に記録なし。家でゆっくりしていたらしい。

7/26
友人たちと野外音楽ライブへ。Ujazdowski公園の裏、Otwarty Jazdówという緑豊かなコミュニティセンターがある。1945年、ワルシャワ復興局の職員向けアパートとして、フィンランド式の木造住宅90軒がこの地に建てられた。ワルシャワ再建後は主にアーティストたちが入居し、現在残る27軒の家は2017年より保存修復も進められている。住居として以外にも様々な文化施設として利用されており、今回訪れたAmbasada Muzyki Tradycyinejはワルシャワで唯一、ポーランドやスラブの伝統音楽を専門に扱う場所だという。この日はŻNIWAというパガンフォークバンドの演奏を聞いてきた。収穫という意味の名前だ。夏の夜、自由に一緒に踊ってねというイベントで幻想的な雰囲気だった。会場側が用意した椅子が足りないほどの観客が押し寄せ、ダンスフロアのスペース確保に苦心していた。人々が踊るの見て、トールキンの世界を思い出したり、森の民の軽やかさを感じたりした。

会場の様子。20時でもこの明るさ。
時折入る曲の解説に、ヨーロッパの北の地域の民族の移動や交流に思いを馳せた。
わかりづらいがこの時男性奏者は楽器を4つ同時に演奏している
敷地内の別の建物にストレートなメッセージ

7/27
ガーデンセンターに行き、前庭に植える花を物色。

早速様子を見にきた猫

7/29
自分の部屋に珍しく猫がくつろぎに来てくれた。年季の入った熊が見守る。

この夏は暑かったので2階にほとんど登ってきてくれなかった

夜は夫の大学の後輩と人気のヴィーガンラーメンの店Vegan Ramen Shop Muranówへ。肝心の写真撮るの忘れてた。店内は若者向けに白とピンクのネオンで装飾されポップな空間。おーいお茶が売り切れていた。味もかなり良い。カウンターの上にポーランド語で「スープに正解はない」との文字をかたどったネオンが輝いており、店の気概を感じた。食後は周辺を散歩し旧市街の辺りをぶらぶらした。

旧市街の通り

7/30
夕飯後に家の近所を散歩。ポーランドにはあまり公共トイレがない。たまにTOITOIという仮設トイレが立っていることがあるが、あまり使いたくない衛生状態であることが多い。こうした中、無料で使えるトイレのマップを公開するサービス、およびアプリ「Gzie jest Tron」(玉座はどこ?)の存在を知った夫が早速ダウンロード、玉座(便器)を探す旅に出たのだ。現在地を示す人型アイコンに冠がついているのもツボ。見つけた玉座を使用した後には、その玉座に星とコメントでレビューをつけることもできる。このレビューを読むのがまたたまらない。文才溢れる無名の王たちの遊びを垣間見ることができる。ポーランド人たちのこういうユーモアを愛さずにはいられない。散歩中に見つけたTOITOIは、無惨にも横倒しにされており、中を確認することは叶わなかった。

7/31
Łazienki Królewskie w Warszawie(ワジェンキ公園)へ。広い公園で水上宮殿や、ショパン像を囲んで行われる、夏の毎週日曜に開かれる無料野外ピアノコンサートなどで有名。クジャクが放し飼いされていたり、リスに胡桃をあげられたり、自然豊かな美しい場所である。その公園に至る道沿いに、1944年8月1日に始まったワルシャワ蜂起の様子を伝える写真が展示されていた。色付けが施され、当時の人々の様子が鮮明に写っている。建物の爆破された瞬間、わずかな物資を分け合う人々、塹壕から頭をのぞかせる老人、救い出した子犬を抱いて喜ぶ人々、布を被せた遺体の横で立ち尽くす人々。ウクライナ人と思しき人々が多数足を止めて写真に見入っていた。

ワジェンキ宮殿。
手前に大きな池があり、対岸から見ると水上に浮かんでいるように見える。
WARSAW RISINGと題されたワルシャワ蜂起の写真資料の路上展示。


流石に1ヶ月分となると長文になってしまった。次回は8月、残りの1週間ほどを補完できたらと思う。


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