【エッセイ】パソコンの充電機が接続部分で折れてしまって、ズボラさを反省した話
パソコンの充電器の先端が、接続部分の中で折れるという事件が発生した。
数日前、パソコンの充電器の先端が欠け、今まであったはずの先端の黒いカバー部分がなくなっていることに気がついた。いつのまにそんな無防備な姿になってしまったのか。これは悪い夢だと現実から目を背けて数時間経ったが、状況は変わらない。パソコンのHPが確実に減っていることを考えれば、悪化していると言ってもよい。
私は諦めて、パソコンの充電器を購入するために検索を開始した。が、充電器の詳細欄には呪文のような数字とアルファベットが並ぶばかりで、果たして自分のパソコンに合うものなのかがわからない。
自分のパソコンの型を調べれば解決するかと思い、その「型の調べ方」を調べて、四苦八苦しながら突き止めた。呪文の中から、この数字とアルファベットが見つかれば一安心である。
持ち前の集中力を発揮し、上から下までくまなくチェックする。見あたらない。合格発表の貼りだされた用紙の中から、自分の受験番号を探すような緊張感の中、自分の型番をメモした紙と説明欄を交互に睨み付けながらきっちり3回確認したが、ないものはなかった。
私は途方に暮れた。これではこの充電器が正しいのかどうか、わからない。
スマホの画面を見ながら頭を抱えた。
次第に頭を抱えていることが億劫になってきて、普段は滅多に顔を出さない私の中の“楽観主義”が「絶対にこれだ。これ以外考えられない。」と主張し始める。かつてないほど強気な気持ちが沸き起こり、「そうだ、絶対にこれで合っている。これが合っていないというなら、私はもう何も信じないぞ」という決意のもと、購入ボタンを押した。二種類あったうち、値段が安い方を迷わず選んだ。臆病者の強気なんてこんなもんである。
届くまでの期間、「楽観」と「不安」が「私に清き一票を!」と熱心に選挙運動を繰り広げ、私の脳内はどんちゃん騒ぎであった。「楽観」が優勢な時期には、夫に「私はパソコンの充電器を購入しました。若干の不安はありますが、サイズは多分あっていると思います。」と宣言した。夫は戸惑った顔をした。
機械が強い者にはわからないだろうが、機械音痴が己の力で電子機器を購入するということは、英語に苦手意識のある者がたった1人で外国にいくようなものである。つまり、大変な勇気を伴う行為だということだ。自慢の一つでもさせてほしい。
パソコンの残りHPはほんの数パーセント、ほぼ瀕死の状態になっていた。
無事に充電器が届いた。こんなに何かを待ち望んだのはいつぶりだろうか。開封するのさえもどかしい。
取り出した充電器をパソコンに差し込むと、なんと、入らなかった。届いて僅か数秒で、希望は絶望へと変わった。
口角を下げられるだけ下げながら、私は再び検索を開始した。へこんでいても仕方がないのである。元々使っていたものと、購入した物を観察してみると、購入した物のほうが細かった。なるほど、もう少し太いものを買わねばならなかったのか。そう思い、10分くらい調べ続けたところで、ハッとする。おかしいじゃないか。元々使っていたものより細いなら、なぜ接続部分に入らないのだ。
もう一度差し込んでみたが、やっぱり入らない。試しに接続部分を覗き込んでみたら、消えた充電器の先端が静かに収まっていたのだった。
原因がわかった喜びは一瞬で、私は再び頭を抱えることとなった。
何やらパソコンで作業をしている夫にSOSを求めると、パソコンの裏側を外してみようと言った。おお、なんて頼もしい。私は助手のようにせっせと必要な器具を準備した。
パソコンの中身というのは、機械音痴にとっては宇宙である。私は宇宙と対面して興奮していた。
しかしその興奮も、明らかに苦戦している夫の姿を前にすぐに冷めていった。
室内はしんと静まり返り、気づけば手術室のような緊迫した空気が漂っている。患者は言うまでもなく私のパソコンである。夫の険しい表情に「せ、先生…うちの子は、うちの子は大丈夫なのでしょうか」と詰め寄りたい衝動を覚える。これはどうやら、難しいオペのようだった。
我が子の思わぬ深刻な状況に居ても立っても居られず、「パソコン 充電器 中で折れた 取り方」と検索すると、私と同じ窮地に立たされた先人たちの知恵が転がっていた。横から仕入れたての情報を伝えても、知識・経験ともに豊富なこの医者は素人の話などには聞く耳を持たない。「一度私にやらせてくれ」と頼んでも「君にできるはずがない」と一蹴されるだけである。
オペが開始されてもう30分ほど経っている。私は何やら大事になってしまった状況に肝が冷えた。そもそもこのパソコンは、仕事で使うわけではなく、最近はもっぱら大して読まれもしないこのエッセイを書くことに使っているのだ。その修理に、仕事で疲れている夫の時間と体力を使わせているこの状況に、無性に恥ずかしくなった。
オペが難航している苛立ちから「なぜこんな状況になったのか」と夫に詰問され、渋々「パソコンを床に置きっぱなしにしていた。多分そのときに椅子か何かにコードが引っかかり、充電器が変な方向に引っ張られて折れ抜けたのではないか」という、絶対に怒られるとわかっている事実と推察を伝えた。案の定、「パソコンを床に置くな」と𠮟られた。
数十分後に「これは直らない」と言われそうな予感がして、これ以上夫の時間を浪費させては申し訳ないと、「とりあえずもういいよ」と何もよくないが必死に伝えた。また、無視された。
そして数分後、予想していた通りの言葉を、夫の口から聞かされた。“修理代はきっと高いぞ”という脅し付きだった。
私は「ああ、その修理代で一体何個のケーキが買えるのだろう」と考えて悲しくなった。これも、己のずさんな管理が蒔いた種である。
夫に見限られたパソコンを前に私は悪あがきしていた。往生際が悪いと言われても、やすやすと諦められない時が、臆病者にだってあるのだ。多くの先人たちは、ピンセットで救出が成功したと書いていたが、如何せん我が家のピンセットは先が太かった。先が細いドライバー二つを組み合わせて、ピンセットのように上に引っ張り出す作戦を試みる。若干浮かび上がってきたところで、太いピンセットを使って引っ張り上げた。
とれた。
コロンと出てきたそれは、先人たちが写真に収めていたそれと全く同じ大きさであった。新しい充電器も問題なく使用でき、危険を伴うオペだったにも関わらずパソコンは何事もなく元気な様子である。手が震えていた。解決した後もしばらく気が動転して、「よかった…本当によかった…先人たちよ本当にありがとうございます…」としばらくブツブツと唱え続けた。
少し経つと今度は先人たちへの猛烈な仲間意識が芽生え、「私も今日、晴れてそちら側の人間となりました」と顔も知らない先人たちへ、テレパシーを送っておいた。
先端部分を私が取り出したことに夫は大層驚き、しかし褒められることはなく、「わかったね、パソコンを床に置くんじゃない。それから充電器はこの向きで使って…うんたらかんたら…」とまたお説教が始まった。
それにしても、人から言われる言葉や評価が100%正しいとは限らないものである。
私はうるさい夫のお説教を聞き流しながら、もう少し自分の力を信用してもいいのかもしれないと思った。