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【エッセイ】自分以外の誰かになろうと背のびしてしまう

夕方、冷蔵庫の扉を開けて、ぎょっとした。
いつの間にか食材が、乱雑に隙間なく詰め込まれている。


夫の仕業である。

夫は存外スーパーが好きで、たまにふらりと立ち寄っては興味をそそられたものをしこたま買ってくる。一度使ったら満足しそうなユニークな調味料やら、ちょっと珍しい魚や、スーパーにいるときに作りたいと思ったメニューに必要な肉。そのとき作りたいと思ったものを帰宅後に夫が作る保障はなく、大体の場合、自分が買ったもののことなどすっかり忘れている。
そのくせ、2週間後くらいに「そういえば僕が買ってきた肉はどこ?」と寝ぼけたことを言って私を呆れさせるのだった。


 そんな無計画な夫の衝動に振り回される我が家の冷蔵庫が、ふいに自分と重なる。

周囲の言動や、起こった出来事について延々と考え続け、パンパンになった私の頭の中みたいだと思った。


 

世の中には、夫のようにモノを溜め込むことで安心感を得られる人もいるけれど、私はモノを減らすほうがホッとする(しかしゴミは溜め込む)。

冷蔵庫の中身にしても、スーパーで買ってきたものを詰め込むときよりも、順調に中身がスカスカになってきていることを実感すればするほど、満たされる。
それは、食材を使い切るというミッションを順調に遂行できているという達成感なのかもしれないし、何がどのくらいあるのかといった状況把握のしやすさへの安心感なのかもしれない。


 

ごちゃごちゃしたものを見ることに耐えられなくなる時期が定期的に訪れて、そんなときは無性に何もかも捨てたくなるのだった。振り返ってみると、頭の中が思考で埋め尽くされてへとへとになっている時期と重なっている気がする。


 私の頭はいつも何かしら考えていて、ハムスターが遊ぶ回し車のようにカラカラと回転する。次第にスピードが出てきて、走っている本人でさえ制御不能になっても、すっ転びながら走り続ける。そうこうしているうちに、ある程度のスピードでは転ばなくなるのだ。


 人からの言動でモヤリとすればそのことについて悶々とし、人から褒められれば「なぜ素直に受け止められなかったんだろう」と後悔し、仕事について“あの場面はあれでよかったのだろうか、こうしたほうがよかったのではないか”と反省し、うまく出来なかったことを思い出しては恥ずかしさで悶える。どうしたら今よりマシな人間になれるだろうかと自問自答し、突発的にストレッチをしたり、表情筋を鍛えたり、モノを捨てたりしては、長続きしないことに頭を悩ませる。


 読書をしても、映画を見ても、“成長”という名の向上心を持った私にかかれば「教科書」になってしまうし、「今この瞬間に意識を集中して楽しむこと」が大切らしいから、「今この瞬間に意識を集中して楽しむこと」はどういうことかを考える。「私は楽しめているか?」と数分に一度、考えることだって忘れない。

 

いつだって私は“よりよい自分になるため”の努力でいつも頭の中が忙しくて、他人に割く時間がなかった。その時間がもったいないと思っていたし、何もしていないと不安になる。その不安感は「もっと努力しなければ」と私を追い立てた。滑稽なことに、頭の中の忙しさは周囲の人からは理解されない。それどころか“暇そうなのにいつもピリピリしている”と言われることさえあって、それが不思議でたまらなかった。


 なぜ私はこんなに忙しいのか?
こんなに時間に追われているのか?
そのくせ大して成長していないのはなぜなのか?


 なんてことはなかった。まさにその考えすぎが原因だったのである。

いつも考えすぎているから心からリラックスしてのんびり過ごす時間がないし、考えることや自責にほとんどの時間と体力を奪われているから、行動している時間は短い。行動するよりも“考えすぎる”ほうが簡単だから、「考えすぎる」ことでどこか安心していたのかもしれない。

「こんなに考えているのだから、私は成長しているはず。よりよい人間になれているはず。」


 

ところで、私はなぜよりよい人間になろうと躍起になっているのだろうか。
「ちゃんとしなきゃ」「大切な人を大切にできる人間になりたい」「楽しく生きたい」が、4:3:3くらいの割合で占めている気がする。

気持ちとは裏腹に、現実は「大切な人を大切にできる自分になる」「楽しく生きる」の割合はほぼ0になり、「ちゃんとしなきゃ」に縛られた結果、大切な人たちとの他愛ない時間を“もったいない”と感じるややこしい女が誕生したというわけだ。


「幸せになりたいけど、頑張るのはいや。」という本で著者は「ムダなことには一切時間をかけないという人は人生全体をフルで労働しているのと同じ。」だと言っていた。これは趣味に生産性を求める人に向けた言葉だったけれど、何も生産していないのにフルで労働していた私っていったい…。考えるのはよそう。さすがに虚しくなってきた。


 
変わりたいと思っているけれど、変わりたくないと思っている自分もいる。

新しい考え方や視点に出合いたいとは思っているけれど、新しい考え方や視点を拒絶している自分もいる。

自分を否定してしまうけれど、自分を否定している自分に腹を立てている自分もいる。


この一見矛盾した気持ちには、“もう修行なんてせずにただ楽しく自由に生きていきたい”という私の切実な願いだったのかもしれない。意味のある事・価値のあることばかりを追い求めることに疲れ果ててしまった私の心が出したSOS。


 リラックスして目の前のことを楽しめているときというのは、大抵「自分でない誰かになろうとしていないとき」だった。そういうときは、夫とくだらない話をして笑えるし、“こんなくだらない会話しかしない夫婦なんて、ちゃんとした大人じゃないのでは”と不安にもならないでいられた。


 もう誰かになろうとするのはやめよう。

多分これを書いた数時間後にはまた誰かになろうと背伸びしていると思うけれど、少なくとも今この瞬間はそう思っているのだから良しとしよう。こんな気づきをあと100回くらい繰り返せば、私は私に降参できるだろうか。


 とりあえず今は、冷蔵庫。あなたを私が救ってあげる。


 


 


 



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