【エッセイ】自分に厳しくすればするほど部屋が散らかっていくという相関関係
だいぶ前にたまたま目にしたネットニュースの記事。
美輪明宏さんの写真と一緒に“部屋が片付けられない人は…”という文言(ちょっと違うかも)が書いてあって、どうせ説教くさいことが書いてあるのだろうと思いつつも、何が書いてあるのか気になった。
タップしページを開くとそこにあったのは、“もっと自分を大事にしたらいい”といったなんとも優しい内容だった。(これまたうろ覚えでちょっとニュアンスが違うかも)
衝撃と驚きが同時に押し寄せたのだけれど、すぐに納得。何を隠そう、私自身、片付けられない日々を送っていたのだから。
特に一人暮らしを始めた大学生時代はまさに暗黒期であった。
溜まった洗い物やゴミ、汚れた床や水まわり。それらを目にしながら「掃除しなきゃ…」を何度も心の中で繰り返しながらも、実行に移せない日々。
“自分はなんてダメなのだろう”と自己嫌悪に陥ってはため息。かと思えば、真夜中や休日に突然スイッチが入り、何時間もかけてピカピカにしたりする。その度にこの状態を維持して素敵女子になるのだ!と意気込んでは、次の日にはもう元に戻って絶望という、なんとも不毛なサイクルを繰り返していた。
スイッチが入りさえすれば綺麗な状態にはできるのだから、掃除ができないわけではないのではないかと何度も自己分析をしてみた。
じゃあ、なぜ掃除ができないのだろう。
綺麗な状態を維持することができないのだろう。
辿り着く答えはいつも「私がだらしないダメな人間だから」だった。
部屋は自分の心を表す、というのはよく言ったもので、当時の私の部屋は捨てなければいけないものを溜め込んでは腐らせ、よどんだ空気を発していた。(ゴミ捨てが当時はなぜか、本当に苦手だったのだ。)
同じく片付けられない友人たちの家にも、必ずと言っていいほど溜まったゴミ袋が何個も置いてあったし、時々、一緒に友人宅を掃除をしては、何人家族だよってくらい大量のゴミ袋がさほど大きくないワンルームの部屋から排出される光景を何度も見てきた。
そう思うと、不要なものを手放せるということは、健全な精神を表す行為なのかもしれない。
そして、私の心の中も同様に、不要な感情を溜め込み、腐らせ、よどんでいたのだと思う。
大学時代は“自分が自分であること”に人生で一番絶望していた時期で、自分が大嫌いで、だけど可愛くて、人から愛されたくて、必要とされたくて、許されたくて仕方がなかった。
そんな暗黒時代を過ごした私も、今ではある程度の清潔さを保てるようになっている。元のハードルが異常に低いため、一般的な基準というより、あくまで主観的な基準だけれど。
最近は花を飾ることさえある。色気より食い気、花より団子精神で生きてきたことを考えると、花のよさがわかるようになったんだね、と妙にしんみりしてしまう。
花瓶(白状すると空き瓶)の水を変えながら、掃除と換気の済んだ片付いた室内を見渡して思う。
「なんで片付けられるようになったんだ?」
そんな風に思っていた矢先、美輪明宏さんの記事を目にしたというわけなのだ。
大学生活も終わりに近づいた頃、自分も周囲も傷つけてはボロボロになり、憔悴しきっていた私は、このままではだめだと強く思った。
お得意の、自分をよりよくするための努力をしようと、『「めんどくさい女」から卒業する方法』という本を手に取った。(なぜなら、めんどくさい女だったから)
そのとき初めて気づいたのである。
自分が頑張る方向を間違えていたことに。
今までの、自分を武装するための努力をいったん放棄し、そこから自分自身と向き合う作業を始めたのだけれど、その年月と比例するように私の部屋は清潔になってきていることに気がつく。
嫌ったり責めるのではなく、自分の話を聞く。
ただただ、自分の心に耳を傾ける。
そっか、私はちゃんと自分に優しくできていたのか。私に必要だったのは“やる気”より“優しい時間”だったのだ。
うんうん、と頷きながら、視界の隅にちらつく、あとで分別しようと数日前から置きっぱなしのビンと缶に気づかなかったふりをした。
優しさ、万歳。
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