第4回 クレイジーに生きる
夢を追いかける。
どこまでも追いかける。
自分の人生だ。
かけがえのない人生だ。
だから、クレイジーな夢を追いかける。
とことん追いかける。
人から愚弄されようと、白い目で見られようと、出る杭は打たれようと、自分のために、自分を貫き通す。
ぼくのこの考えは、いくつになっても変わらない。
夢の実現を目指して…
ぼくは79歳のとき、新しい人生の目標を掲げた。
「3年で10倍の成長を目指す」という目標だ。(第1回記述済み)
それから人生は一変した。
ぼくの青春が再び始まった。
改めて、目標の持つ意味をかみしめた。
クレイジーな目標こそ、真の目標であることを知った。
クレイジーであればあるほど、目標の達成は容易い。このことも知った。楽しいことも知った。
前回(第3回)を投稿してから1.5か月あまり、
この間、ぼくはアップアップしていた。
日々の変化を「記録」するのにアップアップしていた。
クレイジーな目標に取り組むと、さまざまな「変化」が襲いかかってくる、
変化とは発見である。
「新世界」の発見である。
今まで見たことのない世界の発見である。
ときには「すごい!」 無意識に口にでる。
それから、ぼくは必死に書きまくる。
ビジュアルに見えていた新世界が文章に転換できたとき、
また、その文章からビジュアルな世界がイメージできたとき、思わず「オオっ!」と叫んでしまう。
また1つ成長したのだと、込み上げてく喜びを抑えながら、
書きまくった記録を繰り返し何度も読み返す。
いい気分だ。
その余韻に浸りながら、暫く我を忘れる。
幸せな1日だった、と感謝しながら、
長くて、あっという間の1日を終える。
「3年で10倍の成長」の真骨頂は、モチベーションに火がつき、燃え上がることだ。
いったん火がつくと、自分の意思で消すことができない。
「心の火」は燃え続ける。
だから、夢中で取り組んでいる限り、消えることはないだろう。
東京大阪間を67分で行き来することが当たり前になっても、
「京」という単位をはるかに超えるスーパーコンピューターが開発されても、
スマホをはるかにしのぐ「代物」が出回ったとしても、
AI技術がわれわれの頭脳を超える時代になっても、
これらは、われわれに「利便」を提供してくれるに過ぎない。
自分の心の中に立ち入ることができるのは、自分である。
科学がどれだけ進展しても、科学が人間の心の中に入り込み、心の火を灯してくれることはない。
人間の内面をコントロールできるのは、われわれ1人1人だ。
自らの心の火を灯すのは、自分だけである。燃え上がらせるのも自分だけである。
現状延長線上でものごとを考えている限り、心の火は灯らない。
何か軌道を外れたことをしていると、物議をかもす人間、変人というレッテルを張られがちだ。
社会には、何事も慎重に行うことが「是」とする風潮がまだまだ残っている。
このことに特に異存はないが、この因習がわれわれの成長を阻んでいることも事実だ。
例えば「%の世界」
売上10%アップ、生産性10%アップ、利益率10%アップ、昇給10%アップ など
これらはいずれも過去のデータベースから「解」を求める「改善」の取り組みだ。
われわれは「%の世界」に慣れ親しんできた。
また、
「できることから取り組む」
こんな習慣が身についてしまった。
改善の底辺に流れるのは「現状維持」の精神だ。
取り組んである種の満足が得らたとしても「頭の構造」が変わらない限り、何も変わらない。
いずれ、元の木阿弥に終わる。
それだけではない。
改善にうつつを抜かしていると、
構造を変える取り組み、
長期的な取り組み、
ゴールが見えない取り組みに、ついつい二の足を踏むことになる。
3年で10倍の成長で分かりかけてきたことがある。
易しい取り組みほど難しい。手間暇がかかる。という歴然とした事実だ。
今までの経験やキャリアだけでは、ものごとの決定はできない。
過去のデータをひっくり返して考える羽目に陥るからだ。
頭の構造が変わらないから、現状をうろうろしている。
だから、ストレスが溜まるのだ。
「3年で10倍の成長」の取り組みは楽しい。
ゴールもゴールに至る道筋も見えない。だから楽しい。
不思議だ。
モチベーションに火がつき燃え上がれば、不可能なことでも実現できるのではないかと錯覚する。
夢を追いかけ、
クレイジーな目標を立て、
自由奔放に、無邪気に、クレイジーな姿勢を貫きながら、
そして、記録に残すという「人生のルーティン」を怠けない限り、
糸の切れた凧が、風に吹かれてどこまでも飛んでいくように、われわれもどこまでもどこまでも夢を追いかけることができるのだ。