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Reset


 ――今日、壊れた傘を、そっと、ショッピングモールのトイレに置いて来た。
 誰かが忘れて行ったかのように見せかけて。
 傘の先端の金具はいつしか取れてしまっていて、雨で濡れる度、傘を置いた床にはいつも、丸く錆の円を描いた。
 玄関にも、コンクリートの地面にも、傘立ての中にも。
 その円は、決して綺麗な色でも、綺麗な円でも無く、いびつな円。
 それはまるで、私と白城しらきのようだ、と思った。
 
 大学を卒業し、就職した会社で、白城と出会った。
 配属された部署に居た白城は、私よりも四歳上だった。人当たりの良い、誰からも頼れる存在で、入職したばかりの私でも、それはすぐにわかった。
 白城とそういう関係になったのは、三年前。
 
 私には長年、想いを寄せている人が居た。
 高校時代に出会った二つ上のその先輩は、私の初恋だった。
 先輩の卒業式の日、私は、勇気を振り絞り、気持ちを伝えた。
 はっきりとした返事は無かった。
 でも、先輩は微笑んで、私を抱き締め、そっと、私の額にキスをした。
 忘れようとしたけれど、忘れられなかった。 
 先輩が居なくなってからの高校生活は、降りそうで降らない、水分を含んだ厚い雲が、ずっと覆い被さっているような、そんな日々に感じていた。
 先輩が行った大学に、私も行きたい。
 それだけを目標に、猛勉強した。
 大学合格通知が届いた時は、たかだか十数年ではあるけれど、私の人生の中で、こんなに嬉しいと思った事は初めてというぐらい、心が躍った。
 大学に通い始めて一ヶ月が過ぎようとしていた時、先輩を見掛けた。
 心の奥が、締め付けられた。
 喜びよりも、私の事なんて記憶の片隅にも無いかもしれないという恐怖心の方が勝り、離れた所から見ている事が精一杯だった。
 一瞬――。
 先輩が、不意にこちらを見た。
 そして、あの日のように、微笑み、ゆっくりと、こちらへ向かって歩いてくる。囚われたかのように、私は、動けなくなっていた。
 先輩とは、いつしかそういう関係になり、付き合い始め、一緒に住み始めた。
 私には勿体無い程、毎日が幸せだった。
 先輩が就職して働き始め、一年が過ぎようとしていたある日。
 大学の講義を終えて家に帰ると、先輩は、居なくなっていた。
 一緒に過ごした日々も、全て、幻だったかのように。
 そんな絶望の日々の中でも、私は必死に大学を卒業し、就職した。
 
 新人歓迎会での、二次会の帰り道。
 飲み過ぎてしまった私は、白城に支えられ、近くのラブホテルに入った。
 酔っていたのと、私の中でずっと消えない先輩への想いと、日々のストレスで、全てがどうでも良かった。
 
 そんな関係が、もう、四年も続いている。
 白城の事を、人としては、好きなんだと思う。でも、恋愛としてはどうなのだろう。まして、妻の居る相手で、私は只の不倫相手なのだ。
 人の道を外れた者同士。
 ベッドの中でどんなに愛を囁かれようとも、それはとても脆く、冬の日に薄く張った氷の様に、簡単に割れてしまうくらいの、そんな関係なのだ。毎回別れ際には、今日で終わらせようと思っているのに、中々終わらせる事ができない。
 一人になってしまう事への恐れなのか、自分でもよく分からないまま、月日だけが過ぎていった。
 でも、次に白城と会う時は、必ず終わらせる。先輩がくれた傘を、ショッピングモールに置き去りにしたあの日、そう誓ったから。
 そして、『私』を、リセットしていく。

 久々に仕事が定時で終わり、窓の外を見ると、天気予報は外れだった様で、雨が降っていた。折りたたみ傘はこの前使ったまま、家に置きっぱなしだった事を思い出した。
 駅まで走るか、タクシーで帰ろうか、迷いながら外に出て、少しの間立ち竦んでいた。
「――美波みわ」 
 背後から私を呼ぶ声が聞こえ、身体が硬直した。
 それは、忘れたくても、何年もずっと忘れる事ができなかった、懐かしくも苦しくなる、あの人の声だった。
「美波?」
 もう一度呼ばれ、ゆっくりと振り返ると、あの日、突然私の前から居なくなってしまった、先輩だった。
「久し振り、美波。あの頃より、更に綺麗になったね」
 そう言って微笑みながら、先輩は私の頭上に傘を差し向け、そっと抱き寄せた。

 連れられるがまま、十八時からオープンするカフェに入った。初めて入るカフェだったが、視界に困らないくらいの明るさの照明と、会話をするには静かすぎるが、言葉に詰まったとしても、不自然にはならない空間だった。
「美波は?何を飲む?お腹も空いてるよね。食事も美味しいらしいから、食べてみよう」
 目の前に居る事がまだ信じられないのと、何もなかったかのように変わらない先輩と、様々な感情がごちゃ混ぜになっていて、空腹感なんて、とっくになくなっていた。
「美波は?おすすめ、勝手に決めても良いかな」
 メニューを見ても決められない私を見て、先輩はオーダーし始めた。
 オーダーを取った店員が去った後、どうしても聞きたかった事を、聞こうとすると、その事を先に口に出したのは、先輩だった。
「どうして、突然居なくなったか――美波が聞きたいのは、それだよね?」
 私は、頷く。
 だが、その事はまだ話そうとしない様子で、
「ねえ、美波。食事したら、美波の家、行こう。そこで、ちゃんと話すから――」
 エアコンで少しだけ冷えた手で、昔みたいに、私の頬を優しく撫でた。

 味もよくわからない状態のまま食事を終え、店を出た。
 私の住むマンションに着き、玄関に入ると同時に、先輩は私を玄関の壁に押し付けて、キスをした。
 抗いたいのに、あの頃のように熱を帯びた目で見つめ、何度も唇を重ねられると、意に反して、私の身体も、熱を帯びてくる。
 ああ、この人は、忘れようとしても、忘れさせてはくれないんだ――
 唇が離れた瞬間、
「先輩は、ずるい…」
 吐息混じりに言うと、また私が離れられなくなる事を見透かしているように、微笑む。
「美波は、もう、名前を呼んでくれないの?」
 私は、あの時のように囚われたまま動けず、雨で少しだけ重くなった服を、ゆっくりと脱がされてゆく。
「――叶衣かなえ
 リセットするなんて誓いは、いとも簡単に自分の手で破り、又、私は叶衣に堕ちていく。

 終わった後、叶衣は細い腕で私を包んだまま、突然居なくなった理由を話し始めた。
 微睡まどろみの中では既にもう、知らなくても良いとさえ思い始めていたが、叶衣の指に自分の指を絡ませながら、耳を傾ける。

 叶衣は、元々父親という存在を知らずに育った上に、母親は、叶衣を置いて、男性の元へ走り、今はどこで何をしているかもわからない。母方の祖母に引き取られ、祖母に育てられた。
 そんな祖母に病が見つかり、叶衣のウエディングドレス姿を見たいという願いを叶える為に、当時、叶衣に想いを寄せていた男性と、結婚したと言う。
 ショックじゃない。
 と言えば、嘘になる。
 でも、女同士の私達を認められる程、世間は甘くない。好機の目で見られ、罵られるかもしれない。
 余りにも、乗り越えられない壁が多過ぎる。

「でもね。あの頃も、今も、本当に愛してるのは、美波だけだよーー」
 叶衣は、私の額に優しくキスをした。

 それから、叶衣は私の部屋に、何度か訪れた。何年もの空白を埋めるかのように、私達は抱き合った。
 ある夜、ルームランプの明かりに灯された叶衣の背中に、不自然な青痣があった。
「ねえ、叶衣…背中、どうしたの?」
 私は、その青痣に恐る恐る触れる。
「……見られちゃった?……あの人がね、よく、私にするのよ…」
 叶衣は、逃げるように、服を着始める。
「それって…DV…って、こと……?」
 こちらを振り向かないまま、叶衣は頷いた。
 まさか、叶衣がそんな状況にいるとは、思わなかった。
「そ…んな…」
 言葉に詰まる。
 どうしたら良い…?
 私に、できる事はある…?
 相談窓口に一緒に行くとか?
 いや、そんな事で良いならとっくにしているだろう。
 私の所に逃げて来られないだろうか。
 それとも、私も一緒に、どこか遠くに行ってしまおうか。
 それとも……。
 色々な考えを巡らせ、無言になっていた私に、叶衣はゆっくりと落ち着いた声で言った。

「一緒に、あの人を殺してくれないーー?」
 
 
                続く
 

 

 

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