10℃
今日は、何月の、何日だったかしら?
妻の昌江は、カレンダーをめくる。
朝から、幾度となく繰り返されている問いかけに、僕は根気強く、同じ返答をする。
「あら。もう、今年も終わるのねえ。早いわねえ、お父さん。あ、そうだ、寒くなってきたから、お父さんのマフラー、出さなくちゃね」
昌江はそう言って、微笑む。
物忘れが増えてきたな、と、気付いた時には、もう、手遅れだった。
日常生活でのちょっとした事も、段々と、できない事が増えてきた。
昌江がそうなる事が、信じられなくて、信じたくなくて、僕は、一人、苛立つ事もあった。
午後は、日課の散歩へ一緒に出掛ける。
近くに大きな公園があることは、良かった。
他愛のない会話をしながら、ゆっくり、ゆっくりと、歩く。
そうして、池の前のベンチに座って、少し休憩をするのだ。
池では、ボートを漕ぐ親子連れやカップルが、楽しそうに行き交う。
「懐かしいわねえ、お父さん。この街に引っ越してから、悠ちゃんと三人で、よくボートに乗りましたねえ」
一人娘の話しをし始める昌江の瞳は、午後の陽射しを受け、眩しそうにもキラキラしている。
「さあ、そろそろ行きましょうか、お父さん」
ゆっくりと、昌江は立ち上がった。
家への帰り道。
「そうそう。今年も、お父さんの大好きな黒豆、煮ましょうね。お節とは別に、沢山、黒豆入れますからね」
嬉しそうに、昌江はそう言った。
ああ…昌江。
君は、そんな事を、覚えて居てくれるんだな。
昌江からの言葉は、殆どが、家族の事ばかりだ。
僕は仕事ばかりで、家事も育児も、殆ど、君まかせだったのに。
不器用な僕は、勘違いばかりだったのに。
昌江は、薔薇を好きだと思っていたのに、本当は、百合が好きだった。
ドライブが好きだと思っていたのに、本当は、車酔いをするから、苦手だった。
なのにどれも、いつだって、笑って喜んでくれた。
何年ーー
いや、何十年振りだろう。
昌江の肩に、僕は、そっと手を回し、引き寄せた。
昌江の肩は、こんなに、小さかっただろうか。
「あら、お父さん…!うふふ、恥ずかしいわねえ。でも、温かいわねえ」
昌江は恥ずかしそうに微笑みながら、そのまま僕に、身体を寄せた。
肩に回した僕の手に、そっと自分の手を重ねて。
「ーーああ、寒いからね」
昌江。
今年の黒豆は、僕も台所に立つから、一緒に作ろう。
だけど、僕は邪魔になるだろうか。
もし、これから先、昌江が作れなくなったら、僕が作るんだ。
覚えていたいんだ。
忘れたくないんだ。
昌江の黒豆も、昌江の笑顔も。
全部、全部。
そして、時折昌江に苛立ってしまった事を、心の中で、何度も何度も、謝り続けている。
こうやって、昌江に触れる理由を、寒さのせいにしている、いい歳をした、臆病な僕も。
穏やかで、肌寒い、10℃の冬の日にーー
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