【ショートショート】僕の頭の中の店#横浜中華街
僕にはもう一度食べたい、訪問したいと思う店が1つある。
その店は横浜中華街にあって、大通りにある派手な、異国情緒あふれる店構えはしておらず、むしろ店と店の間の細い、他の店の電灯に照らされている細い路地に入って、一見、築年数が経った民家のような出立ちで小さく看板が出ている店だった、ような気がする。
気がする、というのは、その店に行ったのは経験か、想像か、妄想か、聞き耳か判断できないからだ。菜緒が連れていってくれたその店は、住所も分からず、店名も分からない。ここまでくると菜緒が連れていってくれたことも現実か怪しい。その店が存在するかどうかのヒントはある。でもヒントから答えを手繰り寄せずとも、このまま、僕の中のシュレティンガーの猫として存在し続けてくれてもいいのでは、とも思う。菜緒と別れて数年が経つし、彼女が僕をどう思っているかは関係ない。ただ、こうやって彼女をふと思い出すきっかけを持ち続けたいのかもしれない。
僕と菜緒が付き合ったのは大学3年のゼミだった。それまでも講義や年に1回あるかないかのクラス飲み会で一緒になる機会はあったが、話すことはなかった。僕はバイトで稼いでサークルやバイト先の飲み会に使っていたし、聞けば彼女はサークル活動が生活中心になっていたと言っていた。
菜緒との接点は4月の初回のゼミ飲みだった。酒が好き、好きなアーティストと読んだ小説が同じ。それだけだった。そこから2人で話す頻度が徐々に増え梅雨が始まる前に、僕は告白した。
菜緒は恋人ごっこが苦手だった。人前で手を繋ぐのは恥ずかしいと避けていたし、菜緒の誕生日プレゼントは、別れたら捨てるのもったいないからと言い、彼女が欲しかった財布は僕と菜緒で割り勘で買った。サプライズプレゼントは鳥肌が立つらしく、嬉しいけど別の方法にしてとやんわり断られていた。サプライズの話、それだけは僕も同意した。
僕らはよく飲みにいった。渋谷、新宿、吉祥寺、下北沢、高円寺。グラスが細いものばかり置いてある店じゃなく、場末という言葉が似合う煙草の燻った店内で瓶ビールを注ぎ合いながら、最近読んだ、見た、漫画、小説、映画、歴史、の話をした。
菜緒と僕は正反対だった。僕がハッピーエンドだと思うものは彼女からしたらバッドエンドだったし、僕がつまらないものは、彼女からしたら面白かった。歯車が噛み合わないくせにわかってほしい想いはお互いに強すぎて2人でいるときは恋人の甘い会話よりは喧嘩というのが相応しかった。
でも必ず、話せばどこか一つ共通点が見つかった。カップ焼きそばって焼いてないよね。餃子には酢と胡椒だよね。好きなサンリオキャラクタがバツ丸だったり。それが宝物のようで、ほろ酔いで僕のアパートに向かう頃には強く手を握りしめていた。
「明日、横浜に行きたい。」
いつものように飲んで、終電で僕のアパートに到着し、ほろ酔いでじゃれ合いながら2人で睡魔を待っていたら、菜緒から提案された。
「連れて行きたい店があるの。」
「へぇ。そういうの一回もなかったら楽しみだ」
「ほんと?めんどくさいとか思ってない?遠いなーとか。」
「千葉にあると言われている夢の国よりは近いし、楽しめそうだからいいよ」
「ならよかった。明日楽しみにしてる。」
今思えば、恋人らしい約束を初めてしたのはあの日が初めてだった。
翌日は秋晴れだった。11時過ぎに起き、ふたりでユニットバスを交互に使いながら、ゆっくり準備をし13時には家を出た。渋谷で乗り換え、東急東横線でみなとみらいに着く。みなとみらいに来るのは3回目だった。適当な店で遅いランチを済ませ、大さん橋を歩き、横浜レンガ倉庫を左手にみながら、食べ歩きや手を繋いでいる恋人達とすれ違う。もちろん、僕と菜緒は手を繋がないし、食べ歩きなんてしたことがない。
自販機で無糖のコーヒーを2つ買い、僕らは山下公園のベンチに座りながら、文学談義を始めた。ただ、周りが恋人ばかりだったことに影響されたのか、いつものような会話のキレがなかったように思えた。もしかしたら菜緒が普段より落ち着いていなかったせいもあるかもしれない。普段はスマホはあまり見ないのに、スクリーンを明転させて時間を確認したり、地図を確認していた。
16時の5分前に「そろそろ行こう。」と立ち上がった。
菜緒がスマホを見ながら道を案内してくれる。中華街の東門を抜けると雑多な喧騒に包まれる。菜緒はスマホのスクリーンを凝視しながら、時々立ち止まりながら器用に通行人にぶつからずに歩く。
「多分ここかな。」彼女が止まったのは大通り沿いの龍や虎が看板に彫刻されている店と、中国語で延々と流れるディスプレイが設置されている店の間の路地だった。路地を進むと築年数がそれなりにありそうな一軒家があった。表札の代わりに店名が記載された看板のようなものががついており、換気扇から香辛料や香り油の匂いが漂ってきたことでなんとか中華料理屋だと認識できた。
年季が入った引き戸を開けると、うなぎの寝床のような空間に丸テーブルが3つあった。奥には2階に続く階段があり、右手側にカウンター4席と厨房があるようだった。カウンターの1番奥には腰が曲がり切って固定されたような老婆がタウンページを読んでいる。老婆が僕らに気づくと、奥から座って、と案内される。
「なんか、いつもの店より場末感あるね」僕は耳打ちする。菜緒はニヤけながら、「もうちょい待って、きっと驚くから。」僕に応えた。
老婆がおしぼりと、使い込まれた角が解けたメニュー表を持ってくる。そのタイミングで引き戸が開く。男性2名、1名が入ってくる。老婆から言われなくともそれぞれ奥から詰めて座る。
菜緒は老婆に注文してくれた。いつもだったらなんでもいいという菜緒に変わって僕がオーダーするから菜緒がそれをするのは新鮮だった。
瓶ビールとビールメーカーの印字が消えかったグラスが机に置かれる。小さく乾杯しているときも菜緒はソワソワしていた。新聞をもったおじさんとランニング姿の女性が入ってきて、満席になった。彼らは慣れたようにメニューも見ず注文する。
「よくこんなお店知ってるね」
「うん…」いつもより歯切れが悪く何かを我慢しているように見えた。何かあるのか、もしかして別れ話をするつもりなのか、少し不安になっていた。老婆がシュウマイと卵スープが運んできたときに水の中でずっと息を止めていたのを解放するように、菜緒がいつもより興奮しながらも空気を読んで小声でつたえる。
「このお店、このシュウマイと卵スープ、前に紹介してくれた小説のお店じゃない?」
僕らの目の前にあるのは一つが男の僕でも3口は掛かりそうなくらいの大きなのシュウマイとふんわりと視覚でやわらかさが伝わる卵スープだった。
菜緒は帰るときに時々、僕の本棚から本を一冊抜いて帰る。電車の中で読んでいるらしく、次に来たときには無言で返し、また一冊抜いて帰る、図書館ごっこをしていた。この習慣のきっかけは僕が菜緒にこの本面白いよと紹介した短編集だった。それは食事とそれを囲む人間について描かれたもので、文章から想像できる料理と繰り広げられる暖かい話や別れの悲しいの話だった。菜緒は返すときにさっぱりと面白かったよと言いい、そんなもんかと記憶の片隅に置いていた。
記憶からそれを引っ張り出すと確かに似ている。横浜中華街の路地にあること、ボロボロな店であること、主人公は彼氏に連れて行きたい店があると言われてこの店にきたこと、常連ばかりで老婆の店員がいること、文章で読んだままのシュウマイと卵スープが出てきたこと。
「冷めないうちに召し上がれ。」
菜緒が微笑みながら取り分けてくれる。味はおいしかった、のだと思う。味の表現は短編集に描かれたようなものしか出てこなかった。
「なんか、言葉にできない」
「どういうこと?」
「菜緒がサプライズしてくれるなんて想像できなかったし、でもこの店が本当に存在するなんて思ってなかった。それ以上に僕が薦めた小説を覚えてるなんて思ってなくてさ」
「わたしも、たまたま知ったの。それでさ、あの店かもって思って。どうしても一緒に食べたかったんだ。」
僕は柔らかいブラシで撫でられたような気持ちになる。
「冷めないうちに食べよう。」僕らが会話も少なく、大きなシュウマイと卵スープを飲んでいると、老婆が両手で一つの料理を僕らの前においた、卵だけのチャーハンに青椒肉絲が乗っている、大盛りサイズのご飯。これも小説に出てきた。僕と菜緒は目を合わせて笑い、食べ切れるか心配になりがら、2つのレンゲで掬った。
「たくさん食べたね。」僕はそうだね、と相槌を打ちながら、山下公園を歩いていた。すれ違う恋人たちと同じように、菜緒の手を握っている。
「今日はありがとう。めちゃ嬉しかった…それしか出てこないや」
「ううん、よかった。でもいつもなら色々話すのに語彙少ないね。感動したの?」
「そうかもしれない」
正直な僕の返答に菜緒が声を出して笑う。少し落ちついてから、
「私たちって恋人っぽくないと思うの」彼女が切り出す。
「ゼミ終わりの週一以外はそんなに会わないし、連絡も頻繁に取り合うキャラじゃない。誕生日プレゼントだって割り勘。デートスポットなんて行かないし、スタバで話すならドトールがいいし、小洒落た店よりは場末の店がいい。お互いの感覚も合わないし、合わせるつもりもない。好きってあんまりいい合わないし、セックスだって数えるくらいしかしてない。」
「そうだね」事実を並べると恋人なりたて期間がずっと続いている。
「でも、時々分かり合えるものがあったりさ、今日のお店みたいに、知っていることがある。この歯車が合致する瞬間が狂おしいほど嬉しくて興奮するし、恋愛っていいなって思う。だから私は、好き。」
菜緒は大さん橋を見ながら、最後の文節はほとんど聞こえない音量で僕に伝えた。
「僕も好きだ」彼女の手を強く握る。彼女も握り返してくれる。今日の最後に少しだけ「恋人」に近づけたのかもしれない。
その後、僕らは社会人になって、別れた。僕らは見た本や映画の話で繋がっていたが、愚痴や仕事の話では繋がれなかった。元々連絡頻度も多いわけではなかったし、どちらともなく連絡は減り、電話で別れよう、と菜緒が切り出して僕が合意して終わった。なんてことはない、大学生の恋愛だ。
ただ、あの店のことを、あの日を思い出すことはある。
小説に描かれた、しかもマイナーな作品の店を特定するなんて、あの当時できたのだろうか。もしかしたらあれば、僕が読んだ小説と菜緒と歩いた横浜中華街のことが混じった記憶のバグなのかもしれない。それか彼女との恋愛を美化したくて勝手に生み出した話なのかもしれない。その小説は実際に存在するし、このSNSのご時世だから特定もできる。でも潰れていたら僕と菜緒のつながりが一つ減ってしまうし、今もあったとしても1人では行きたいとは思えない。あの老婆はいなくなっているかもしれない。現実に近づいても幸せな顛末にはならない。
であれば、思い出の、また行きたいけど、行けないお店として僕の心に留まり続けてほしい、と思う。菜緒がくれた最初で最後のサプライズとして。
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