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【短歌エッセイ】「知ってどうしたいのか」ということ
読者からの問い合わせ
スマホに、不在着信記録が残っていた。
登録していないナンバーだったが、留守電メッセージが残っていて、聞いてみると私が短歌を投稿している地方紙の新聞の編集部からだった。
その内容は、先週の火曜日、3月16日の新聞に掲載された私の短歌について、読者からの問い合わせがあったことを知らせるものだった。
ちなみに、掲載された短歌とは以下のものだ。
「非認めぬ 毒親達に 別れ告げ 胸張り行く道 我は我なり」
日々の生活でのちょっとした気づきや、穏やかに季節を味わうような、他の投稿者の作品と大きく違うそれは、一際異彩を放っているようでもある。例えれば、出された数々のお茶の中に一つだけ劇薬が混じっているような。
問い合わせとはどういうことだろうと思いながら、編集部に電話をかけてみた。
電話に出た編集部のU氏の話によると、どういう気持ちでこの短歌を作ったのかを知りたい、という問い合わせだったそうだ。
「苦情ですか?」と私は苦笑して尋ねる。
「どういう気持ちでこの短歌を作ったのか?」という質問は、穏やかに言えば質問の意味通りだとしても、腹立たし気な口調で言えば、けしからん奴を説教したいお節介なクレーマー風にもなる。
実際のところ、かつて自分のHPに掲載していた日記を読んだ方から、事情を知らないにもかかわらず、「親不孝だ」とか、「もっと親の気持ちを考えて」などといった、お説教メールをもらうことがあったため、今回もその類かと思ったのだ。
しかしU氏の話では、その辺はよくわからないとのこと。
相手は、私の本名と同姓で、私の短歌に自分の親のことを重ねているらしく、だからこそ私がどういう気持ちでこの短歌を作ったのかが気になったらしい。
投稿の葉書には作品以外にも、内容を補足するような添え書きをする人がいるようで、選者の寸評が付く優秀作3首において、添え書きの内容にも触れられていることがある。
相手は、編集部に尋ねれば何か情報を得られるかと思ったのかもしれない。しかし私は、投稿は作品のみで勝負すべきと思ってるので、補足になるような添え書きは一切しない主義なのだ。
行き詰った相手は、直接私と電話で話して尋ねることを希望しているそうだ。
U氏としても、読者のこういう問い合わせ自体が初めてのケースで、どうすべきか悩みながらも問い合わせがあったことを私に知らせた、という状況だそうだ。
「どうされますか?」と尋ねられた。「こちらで、それはご想像におまかせしますとのことです、とお答えしておくこともできます」とも言われた。 私は、どうしたものかと考え込んだ。
相手は、同じ状況にある自分の参考にしたいのか、それともけしからんと思って説教をしたいのか。その、「知ってどうしたいのか」が見えない状況で、相手と二人だけで時間を共有するのは躊躇われた。見ず知らずの相手から直接に攻撃的な説教を聞きたいとは思えない。
それでも、もし同じような境遇で参考にしたいと思ってのことだったら、何らかの力になりたいとも思うのだ。
この短歌を詠むに至った話は、私がnoteを始めるきっかけになったものであり、いつかは記事にするつもりでいたが、まだ今は私自身がnote慣らしの状況で、記事化までは至っていない。記事化していたなら、それを読んで下さいと伝えられたのだが、仕方がない。
私はU氏に、「知ってどうしたいのか」という内容込みの手紙を、編集部に経由で送ってもらえば回答する、と答えた。
U氏に「どんな内容であってもですか?」と尋ねられ、私は苦笑しつつ、「いいですよ、どんな内容であっても回答しましょう」と答えた。来るなら来い、という感じで、既に説教を想定した構えだった。
そう。どこにでも、一定数無理解な人は存在する。そういう相手には、毅然とした態度で、幻想を打ち砕くだけの現実を伝えればいい。それだけのことだ。
呆気ない幕切れ
こうして私は、数日後の手紙を待つ状況となったが、3時間程後のU氏からの電話で、それは呆気なく幕切れとなった。手紙を要求された相手が、これ以上の追及を断念したのだそうだ。
相手がU氏に語ったところによると、相手の母親の命日が、丁度私の短歌が掲載された3月16日だそうで、同姓ということもあり、自分の心を見透かされたような気持ちになって強く心に刺さり、どういう気持ちで作ったのかを知りたくなったのだそうだ。
全くの偶然であり、当然ながら、私に一読者の心を見透かすような特殊能力などない。
ともあれ、今回の問い合わせは、説教的な思いからではなかったようだが、単に知りたかっただけで、具体的に知ってどうしたいのか、という目的はなかったのかもしれない。
相手は「書面までは……」と言って断ったそうで、知ってどうしたいのか、という目的がないとしたら、そんな状況で自分の情報が私の手元に形として残る可能性を、良しとしなかったのだろう。あるいは単に面倒になったか。
回答する気満々になっていた私は、肩透かしを食らったようで欲求不満になった。それを解消したくてU氏に、あの短歌を作るに至った出来事とその時の気持ちを話した。伝言ゲームで本質が歪む可能性を恐れて手紙という手段を選んだものの、始めからこうしておけばよかったな、と思いながら。
話した内容の詳細は、当初より予定しているいつかの記事化に譲るが、U氏は、「きつかったですね。大変な経験をされましたね。それだけの経験をされたからこそ、力のある作品になったんでしょうね」と言ってくれた。
私はU氏に、話した内容を相手に伝えて構わないと言い、U氏も機会があったら伝えると言ったが、既に知ることを辞退している相手とU氏が話す機会はないだろうし、これはU氏の社交辞令だろう。
こうして、同姓であり掲載日と命日が同じ、という偶然によって引き起こされた出来事は、幕を閉じたのだった。
知りたいと思う気持ちの奥に
単に知りたいだけ、とい気持ちを否定するつもりはない。しかし本当は意識していないだけで、「知って不安定になっている情緒を落ち着かせたい」とか、「知って自分がどんな気持ちになるかを確認したい」ということは、あるのかもしれない。
知りたいと思う気持ちの奥に、どうして知りたいのか、知ってどうしたいのか、を意識することで、明確になって来る指針はあるのかもしれない、と思うものだ。
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