比喩「あれからの月日をメモ用紙の様に過ごして」
はじめに
noteの詩人、月兎紬が『うたた寝』という詩をnoteに発表しています。(2024.9.2)
この詩そのものは、なかなか解釈の難しい特徴がいくつかあるように見えますが、その中に表題の様な1行があります.
この比喩には、一読、大きな衝撃を受けました。
筆者が詩の中の比喩についてnoteに書くのは本稿が3度目ですが、今回は前2回と少し傾向の違う比喩になります。
最初の「鯨の群れに隠れるように」(月兎紬『ワンダリング』より)は、話者の回想する逡巡の心理が本当に見事に表現されていると感じました。2度目の「アブラゼミもカラッと揚がってしまいそうな」(坂本『ドレッドに絡まるへんなむし』より)は、夏の空気と温度が鮮やかに捉えられている、と感じました。どちらも、言葉の意味する内容だけではなく、それぞれの言葉の詩の中でのはたらき方が鮮明で、おそらく多くの日本語の読み手が「うまい!」と共感できる比喩ではないか、と感じています。
今回の比喩は、どちらかというと、一種の人生経験が反映された比喩だと言えます。先の2例が、読んだ瞬間に感覚的にわかる、いわば視覚的聴覚的経験に訴える要素が強く、それゆえにおそらく10歳以上ならみんな同じようにわかると言いたくなるほどですが、今回の「あれからの月日をメモ用紙の様に過ごして」は、どちらかというと、生活に蓄積された記憶のような経験に訴えると言えるのではないでしょうか。これをもし10歳で感嘆する子がいるとすれば、それは末恐ろしいほどませた子ではないかと思われます。
フォークナーWilliam C. Faulknerの小説に、筆者の忘れられない比喩の一つがあります。それは「あの男は、女を足拭き雑巾に使える男だから」というようなものです。(正確な引用でなくて申し訳ありません。)
こういう比喩は、その言葉の「指示内容」を理解することは、もしかしたら10歳の子供もできるかもしれません。しかし、ここで言われている「男」がどういう特徴特性の男なのか(少なくとも筆者の様な男でないことは間違いありません笑)、「女を足拭き雑巾に使える」というのはどういうありようを言っているのか、なぜ女はこの男に「足拭き雑巾に」使われてしまうということが起こるのか、そういうことが、どんな詳しい説明を聞くよりもはっきりわかる、となるためには、かなりの人生経験が必要で、送る人生や境涯によってはもしかしたらこの比喩が何を言っているかわからないまま一生を終わる人もそこそこあるかもしれません。あるいは、これまで送って来た人生によって、「足拭き雑巾のように使う」ということの解釈が異なるケースすらあるでしょう。(今、出典を明確にもしないし、正確な原文はもちろんのこと、正確な訳すら引用しないのは、この出典がどの小説だったかうろ覚えで、若干の心当たりはあるものの、確認するのが面倒だからです。確か、登場人物ホレス・ベンボウについての誰かの発言だったように思います。フォークナーの読者ならご存知のように、この人物は複数の小説に登場するので厄介です。ご関心ある方は、ホレス・ベンボウの登場する作品を実際にお読みいただければ、この比喩の意味と面白さが、解釈のブレ無く、よくお分かりいただけるのではないかと思います。)
今回、この『うたた寝』中の比喩に大きなショックを受け、そのもたらす衝撃の重さについて思い巡らすうちに、フォークナー作品中のこの比喩を思い出してしまいました。こういう、感覚的に捉えたものではなく、生活の中での記憶の無意識の蓄積の中から出て来たと思われる比喩は、強烈なボディ・ブローのようにコタえて来る感じがします。
なお、以下の本文には、詩『うたた寝』の解釈の様なものを語る部分がありますが、これについては筆者は実はまるで内容に自信がありません。作者の月兎紬から見れば噴飯物である可能性も十分にあります。あくまでも筆者の独断に過ぎないことをお断りしておきます。
この比喩の環境
先述の通り、この比喩を含む『うたた寝』という詩は、大変解釈の難しい詩であると筆者には見えます。
解釈などいらないんだ、という意見もあるし、解釈したいなら自分の好きなように解釈すればいいんだ、という意見もわかります。作者自身、あえて解釈を限定しない、むしろ多様な解釈を奨励するような(そしてそれによって詩は畢竟「解釈」され得ないものであると示すかのような)書き方を積極的に選択しているようにも見えます。
それだけに、この作者の詩の多くは、「ん?これはどういうことなんだろ?」と思わず考えたくなる謎が読む者に立ちはだかる感じを、少なくとも筆者は覚えるケースが多いです。
本稿のように、作品中に現れている比喩を取り上げて語ろうとすれば、出来れば読者相互の間で共有された認識の上に立って議論したいところです。が、残念ながら、この『うたた寝』という詩は、全ての読者を説得できるような解釈を少なくとも筆者は提示できません。
ではそのような作品の中の比喩を語ることに何か意味があるのか、という議論は当然起こるでしょう。これについては、後でもう一度考え直してみたいと思います。
というふうにして問題の比喩は現れます。(ひと繋がりである詩行を、こんなふうに途中で区切って取り出されるのは、とりわけこの詩では、もちろん作者には非常に不本意でしょう。本当は出来れば避けたいところです。)
掲出の3行目以降を辿ると、「二人がソファの上にいる」という事態が、おそらく否応なしに読み取れてしまうでしょう。
では冒頭の2行はどうなっているのでしょうか。
「人もまばらな大通り」から2行後に「ソファの上で」となります。この「大通り」と「ソファの上」はどう関連づけられているのでしょうか。別々の場所と思える「大通り」と「ソファの上」の、一体どちらが二人のいる「ここ」なのでしょうか。
もう一度詩行をなぞると、「大通り」、「視線は合わず」、「だけど確かに二人ここにいて」、「気がつけばソファの上で」となります。この流れは、「視線は合わず」とは誰の視線かといえば「二人」の視線だと思いたくなりますが、ここではまだ「二人」という語は出て来ていません。「幽霊のように」視線は合いません。ということは、ここではまだ、特定の誰かと誰かの視線が合わないのではなく、誰とも知れぬ主体どうしが、未だ互いにとって相手が主体たり得ていない状況で、いわば不特定の他者たち(の中におそらく当事者自身ももちろんいて)の視線が合わずにいる。大通りだから、当然と言えば当然でしょう。「だけど」という逆接接続詞が来て「だけど確かに二人ここにいて」という叙述が現れます。
この様に意識して辿ると、視線の合わない無関心な他者どうしが(おそらく本人たちもよくわからないうちに、またはここで語られるべき重要事項ではない感じで)「確かに二人ここにい」る事態になっており、「二人」でいることで初めて、「ここ」にいると「確かに」実感できる。その「ここ」が「気がつくとソファの上」だ、ということになっています。ここまでの4行を読むと、そんなバカな、いつ大通りがソファの上になったんだ、という疑問が湧くかも知れませんが、しかし、だからこそ、「だけど確かに二人」、「気がつくと」という言葉を忠実に辿ると、ここまでの叙述が、実は短い4行の語数のうちに、思いのほか長い時間の経過がかいつまんで(かいつまみすぎて)語られてしまっているのではないか、と思われて来ます。
各行は、1行ずつ見れば、それぞれ決して無理の無い、むしろ大変リアリティーのある、ある瞬間の叙述で(尤も、筆者自身は「幽霊みたいに」は少しわかりにくいと感じるのですが)、しかし行から行への間に「二人」の時間が、何の音も立てずむろん際立った事件も無く、速やかに流れている、という印象を受けます。それはテレビ・ドラマなどの画面で言えば、人通りまばらな大通りを視線が合うこともなくすれ違っていたうちの任意の二人が、どこかで何かの弾みに目が合い言葉を交わし深い関わりを持つ様になり、というような状況が、二人の様子には些細な変化しかなくただ背景だけが、大通りが消えてぼやけて二人しかいなくなったと思ったら室内のソファにいる、そのソファーの上で二人が次第に年とってゆく、というふうに流れていくシーンを想起させます。
もし、ここまでの読みに幾許かの妥当性があるとするなら、どうやらこれは、この世界(を象徴しているのが大通り)で、ゆくりなくも出会い、対を作って自分たちを周囲から区切り特別扱いする(その象徴がソファの上の二人)関係に入る、その間のエピソードや感動ではなく、そうした進行の時の経過が歌われている、そしてその時の経過の中で、二人は確かにここに、気がつくとソファの上に、確かにただいただけであるかのように語られている、と言える様に思われます。
上記の「解釈」によれば、ここまでのこの詩のテーマは
「二人にとって時の流れとは何か」 または
「時は二人に何をもたらすか」
ということになるかと思います。そして事実、この引用部分以下も時が速やかに流れていると理解すれば解ける様に思われる詩句が続き、「気がつけば夜空の下で」という行で詩は終わります。
比喩「あれからの月日をメモ用紙の様に過ごして」
さて、そうした中に出現する「あれからの月日をメモ用紙の様に過ごして」です。
この詩でなぜ二人には時間が「だけど確かに二人ここにいて」「気がつけばソファの上で」「いつか確かに二人ここにいて」というふうに過ぎていくのでしょうか?
それは「あれからの月日をメモ用紙の様に過ごして」いたからではないのでしょうか。
「メモ用紙」は、筆者のようにズボラな人間は滅多に使うことはありません。また、「スマホ」(実は、未だに筆者は軽い不満を抱かずにはこの名詞を使えません。)が万能の分身兼秘書になっている最近では、メモ用紙というものの使われる頻度はかつてに比べるとはるかに小さくなっているのかもしれません。
その点、この比喩がよく理解できる読み手となると、自ずから範囲が限定されて来ることになります。
小・中学生は、学校へ明日持って来る物や明日までに片付けておかなくてはならないことを忘れないために、油性ペンなどで手の甲にその項目を書いておいたりします。手を見るときに思い出せるからです。
メモ用紙、というものが必要で、しかもそれを頻繁に使う層はどのような人でしょうか。かつては固定電話機のそばによくメモ用紙が置かれていて、電話の内容などを書き留めるようにしていた家庭が多かったかと思います。それでも、それが使われる場合はさほど多くなかったでしょう。
同じ電話機のそばでも、仕事場の電話機となると、メモ用紙は大車輪の活躍をしていたものでした。仕事場によっては、電話が鳴ると片手に受話器を取りながら反対の手では自動的にメモ用紙を取りボールペンでメモの態勢をとる、というのが日常の光景だったりしたことでしょう。(現在でもそうであるかどうか、その辺りを筆者は詳らかにしません。)
さらに、電話内容のメモに限らず、職種や取り組む作業によっては、日々膨大なメモを取る人々もあるでしょう。中には、まさにメモこそが仕事の中心であるような人もあるかも知れません。
そして、今回問題にする比喩は、そのようにある程度メモ用紙を日常的に消費する人にとっては、たいそうリアルに響く比喩ではないかと思うのです。(10歳の子供には理解が難しいと思う理由の一半です。)
肝心なのは、メモ用紙というものの使われる形態です。メモの内容でなく、それが記される「メモ用紙」は、一度使ったものを消しゴムで消して再利用する、というふうに使う人はおそらくいません。私たち「メモ生活者」は、次々に生起し私たちを襲うあれやこれやの事態や問題や期限やを次々メモ用紙に書き留めては、片付いた件からそのメモをゴミ箱に捨てます。捨てないと生活の妨げになります。私たちの前を、日々さまざまなメモがメモ用紙に記されて左から右へ右から左へ流れ去ってゆきます。メモされていることは重要な内容に関連することでしょうが、メモ用紙で本格的に仕事がなされたり、問題への取り組みがメモ用紙上で時間をかけてなされたりということはありません。メモ用紙は、「とりあえず」ちょこちょこっと書き留めておくものです。
それだけのことを確認して、『うたた寝』という詩を読みましょう。
あれからの月日をメモ用紙の様に過ごして
この詩の話者は何を言いたいのでしょうか。「だけど確かに二人ここにいて」「気がつけばソファの上で」「いつか確かに二人ここにいて」「もっと橙が濃くてもいい夜」という二人が、あれからの月日をメモ用紙のように過ごしていたのではないか、というのです。
確かに二人ここにいた。気がつけばソファの上だった。「君という春が終わるから夏は暑くて」「やっと項垂れた月が飛ぶ頃」と、月日は過ぎて行った。二人は何をしていただろうか。二人でいる間にするべき大切な過ごし方があったのではないのか。二人は「月日をメモ用紙の様に過ごして」いたではないか。
結び
『うたた寝』は、この3行で幕を閉じます。
この、「気づいてね」は、誰が誰に言っているのでしょう。詩はそれを明かしません。
この、絶対来る「終わり」は、何の終わりでしょう。詩はそれを語りません。
とにかく「次からは」目次の時点で気づいてね、と言います。
目次は、本当はあったのです。終わりは絶対来るのです。
あれからの月日は、もうメモ用紙の様に過ごしてしまいました。
でも、「次からは」気づいてね、と。
この詩は、とても苦い悔いを噛み締めた、私たち誰もへの、切ない声援のように筆者には聞こえます。
とても難しい詩を、何だかまるで絵解きができるかのように、つい語ってしまいました。正直なところ、この稿を書こうと思い立ったとき、こんなふうに作品を自分一人の読み方で解きほぐすとは夢にも思っていませんでした。第一、書き始めた時点では、詩の意味はほとんど闇の中にあるようで、ただ「あれからの月日をメモ用紙のように過ごして」と「次からは目次の時点で気づいてね/絶対終わりは来るんだなって」の部分だけかろうじてわかる気がしたのです。
書き出した時点では、この詩全体よりも、この一個の比喩の方が(つまり、全体よりも部分が)優れていて高い価値がある様な気がしていました。
今の時点では、詩全体の見え方、とりわけこの比喩との意味的連関が、かなり異なった印象になっています。
これで、note掲載の詩3篇について、わかりやすいと思われる比喩を紹介させて頂きました。周知の通り、詩と比喩との関係は大変重要で、実は、詩とは比喩そのものだとも言えるものです。この『うたた寝』などは比較的わかりやすいその一例とも言えると思います。ぜひ、全篇を味わって見て頂きたいと思います。