なぜ私が防災の世界に?(後編)
27歳の頃までに想った事が私の人生の転機になる
「このままでは救える命も救えない時がくる」
消防用設備とは火災の時に100%の機能を必要とする設備です。それが時期に分かるのですが、メンテナンス(保守点検)の価格破壊により本来必要な点検や手入れがどんどん省かれ、誤作動を繰り返したり違う場所が発報するなど考えられない事象を想定していました。
その後一度は食品宅配業に就職し、札幌市中央市場に朝買い付けしたものをその日のうちにお宅に届けるサービス開発しそれなりに楽しかったのですが、やっぱり防災の事が忘れられず一年少しで退職しました。
札幌市のある防災会社からのお誘いがあり、そこの経営者と面談をしました。私の考えに納得していただいて採用されました。
少し経って関東圏の営業所で元請け会社とのトラブル回避要員として川崎市に配属になったのが、私が本格的に「中央」での防災に触れる事になりました。
私が20歳の頃、出向という身で茨城県の日立市に拠点を置き、2年間全国の上下水プラント工事管理で全国出張していた経験が何の不安もなく配属を受け入れました。
川崎配属した初日に、大した打ち合わせもなく現地社員と元請け事務所に連れていかれ、状況把握しながら問題解決した事は今でもしっかり覚えています。
その問題は解決したものの、別件で当社経営者と元請け側と喧嘩になりその半年後には複数の営業所が店じまい(強制解雇)する羽目に巻き込まれます。もう少し中央で学びたかった自分。そして余りにも理不尽な幕引きだった経営者を見たので、自分で事業を始める決断をします。
東日本大震災を経験
当時、関東圏で仕事をしていた私は外環道を走っていました。
突如車の揺れ、高速の先が見えない恐怖に見舞われました。そのままお客様の自宅を訪問すると「よく来たね」と言われ、そこのリビングで津波の映像を見ました。
その後、東北被災地の状況や首都圏の計画停電、ガソリンを入れるのに相当苦労したこと。その夏に静岡県富士宮市を襲った地震等々により「自然災害」なるものを意識し始めます。同時に《南海トラフ巨大地震》の話を耳にすることで静岡県に移住することを決断して現在に至ります。
静岡県に来て
それまで仕事で何回も静岡県に来ていたので、仕事をする上で苦労は(私の中で)ありませんでした。
防災活動に関しては、地域の消防団や子ども会、小中のPTA活動などを通して知り合ったM氏がきっかけでした。その環境で自然災害を学ぶにつれ、自分が今まで実施してきた防災訓練と繋がり、新しい「防災」を見つける事が出来ました。今ではどこの防災会社もやっていない「防災訓練」と言いつつ防災講座や「消火器実験&クイズ」を展開しています。
またFacebookグループ「オンライン防災」とも繋がり、《ぼうさいNURIE》というツールを使用しての授業や、平時に防災を感じてもらうきっかけ作りでマルシェやお祭りのブースで《ぼうさいNURIE》を子ども達、そのご家族と小さい単位「家庭」から防災を伝える活動をしています。
まとめ
27歳の頃に感じていた「不安」は、今は全くありません。
私がその時、求めていたのは今の活動「そのもの」だと思っています。
《消火器実験&クイズ》はとても好評です。なぜなら。
今の消火器訓練は、「水消火器」を多くは使い訓練しています。しかし、日本に設置されている消火器の90%以上は粉末消火器であり、その危険性(目の前が真っ白くなる事や消火器は爆弾にもなるなど)が知られていません。昔は訓練参加に非協力だった方みたいな人は今はいません。子供と一緒に「目を丸く」して学んでくれています。
そのお気持ちに感謝しながら、過去の被災された方々の想いを合わせて、これからも精進して生きて行きます。
今年の元日に発生しました能登半島地震。
先日の日向灘で発生した地震、そして台風や線状降水帯など様々な災害に遭う事があります。
「防災は生きること」
予防に優る防災はないと私は言い切ります。
ぜひ、これを目にされた方は
自分事で防災を感じてもらいたい。そう願いながらPCを閉じます。
拙いお話でしたが、お付き合いくださり感謝いたします。
クン岡村