倍速で映画を観るのは罪?
最近はタイパを重視する人が増えていて、YouTubeを2倍(拡張機能を使えばそれ以上)の速度で鑑賞する人がいるそうです。ユーザーは時間を節約できるし、YouTube側としてもより多くの動画を観てくれれば広告を流す頻度も増やせます。動画配信者も動画再生数を増やせるので、誰も損しないように思えます。
配信者も、倍速で鑑賞されることを前提に早口で喋りすぎないように撮影しているそうです。
Netflixなどの動画サイトでは映画も再生速度を上げて鑑賞することができます(Amazon Prime Videoが再生速度を変更できないのは、ポリシーなんですかね)。
倍速で映画鑑賞を観るのは映画に対する冒涜だと批判する人がいます。映画は時間芸術であり、喋る速度や間が大事です。監督は映画館での等速鑑賞を前提に撮影しているので、倍速で鑑賞すると作品の価値を損なうというのが主な批判理由だと思います。
小説でいうと、映画の倍速鑑賞は速読になるのでしょうか。速読とは、ひとつの単語を読むのではなく、ページ全体を俯瞰しながら読んだり、風景描写は文頭だけを読んだりする方法です。
読んでいる間に時間が流れるので、小説も時間芸術といえるかもしれません。
小説家は書いているときに時間の流れを意識します。激しい場面や会話の間に、風景描写を要所に入れて、読書中に流れる時間をコントロールしようとします。緩急をつけるといってもいいかもしれません。
速読だと、小説家の意図通りに読書する時間が流れないことになりますが、だからと言って小説を冒涜しているとは思いません(小説家の中には全部真剣に読め! と怒る人もいるかもしれませんが)。
それは完成した小説は作家のためのものではなく読者のためのものだと思っているからだと思います。
速読とまでいかなくても読者によって読む速度は違うし、理解度も違います。人はそれまでの人生経験も知識も異なるのですから、受け取るものが違ってくるのは当然のことです。
読者がなにを受け取るか小説家がすべてを操作することはできませんし、書いた意図を全て理解しろというのは傲慢かもしれません。
映画が小説と異なるのは、鑑賞者が観る努力しなくても物語が止まることなく流れ続けることでしょう。自宅での動画鑑賞なら一時停止はできますが、映画館では観客の自由には鑑賞できません。館内では監督の想定どおりに時間が流れます。
映画館での経験があるから、自宅での鑑賞でも監督の意図とは異なる速度で鑑賞することに、なんとなく気が咎めるのでしょう。
でも、「倍速鑑賞が悪」だと僕は言い切れません。小説と同様に、出来上がった作品は観る人のものだとやはり信じているからだと思います。
クリエイターが鑑賞する人の時間(大袈裟に言えば人生)を制御できないと思うからです。作品をどう鑑賞するか、なにを受け取るかは観客に委ねられています。
クリエイターは自分の意図や伝えたいことを作品内で表現し伝わるように全力で取り組むだけです。
その日の気分とスケジュールに合わせて、作品を楽しめば良いと思いますが、他のクリエイターはどう考えているのでしょうかね。