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性的指向がない場所にある安心の正体
特に主張する場面はあまりないけど、あえて表現すると私はアセクシャルでクワロマンティックなノンバイナリーの人だ。大声で主張する気はない。一方で、隠す必要もあんまり感じていない。だから親にも友達にも言ってあるし、また他の人から訊かれたら、関係性にもよるけど、正直に言いたいと思う相手には話すと思う。少なくとも必要に駆られて仕方なくカムアウトするわけじゃない。
どこかに自分と同じ立場の人がいて、同じ立場の人の文章を読みたいと思ったときにこの記事にたどり着ければいいと思う。あと、この記事ではタイトルにあるように性的指向がない場所、アセクシャルのコミュニティについて書いていくので、当事者が書いてるよ、ということが伝わればいいなとも思っている。
この記事の前身みたいな形になった半年前の記事はこちら。
アセクシャルは「ない」?
アセクシャルについては詳細な説明がすでにいくつかの本に書かれていて、著者によってそれぞれの説明がされている。ただし、中にも共通する点はある。世界的に有名なアセクシャルのコミュニティサイトAVENのトップページに、その揺るがない共通点を示す端的な一文が記されている。
An asexual person is a person who does not experience sexual attraction.
(アセクシャルとは、性的魅力を感じない人のこと。)
性的魅力を感じない。つまり、他人に性的に惹かれない。性的指向を持たない。それがアセクシャルという語の意味だ。この記事ではそれ以上の含意のないことばとして扱う。
ここで「ない」「ない」「ない」と文章が続いたのは偶然ではない。アセクシャルについて説明するときは否定形で語られることが多い。これを嫌う当事者の向きもある。
私自身はあんまり気にしない。たとえばゲイなら魅力を感じない性別に触れずに「同性の人を愛する」とか、パンセクシャルなら対象の性別を問わないと表現せず「すべての性別の人を愛する」とか言えるけど、アセクシャルの定義がこうである以上、誰を愛するかという点については一概に言えないからだ。
「ない」ことの証明はできないので、そもそもアセクシャリティなんてものは「ない」という見方もある。誰を愛するかではなく、ある種の魅力を感じないことのみを共通点とするコミュニティの間口がとても広いことも理由のひとつだろう。ジュリー・ソンドラ・デッカーの『見えない性的指向:アセクシュアルのすべて 誰にも性的魅力を感じない私たちについて』(2019)には、アセクシャリティにまつわる誤解について書いたこんな段落がある。
アセクシュアリティはコンプレックスでも病気でもありません。トラウマによるものでもありません。行動を指すものでもありませんし、決心して行うことでもありません。純潔の誓いでも、「結婚までとっておく」ことでもありません。宗教的なものでもありません。純潔や道徳的に崇高であることを表明しているのでもありません。
ないものづくしだ。裏を返せば、ここで否定されているものごとは世の中では「ある」と認められているものなのだろう。性的魅力を感じないのはコンプレックスが原因だというなら。病気のせいなら。トラウマのせいなら。セックスしないという行動の選択なら。禁欲の結果なら、宗教的な理由なら。より高潔な目的のためなら。
最初からそう生まれた(※1)以外の何かなら、性的魅力を感じない人も世の中にはいるのかもしれないね、とはじめて私たちのアセクシャリティを認めてもらえるというわけだ。とはいえ、私たちは誰かが存在を認めなくたってここに居るし、だれかにそれを証明する必要なんてないんだけど。
※1 AVENのアイデンティティの項目にある「Most asexual people have been asexual for our entire lives, although not all of us have been aware of the term or the community for as long as we’ve recognized this.(無性愛者のほとんどが生涯を通じて無性愛者だが、ずっとアセクシャルという言葉を知っていたわけではない)」の一文から。
性的指向を持たないという指向
まず、性的指向という表現について振り返ってみる。以下はOUT JAPANが運営するLGBTQ情報サイトであるPRIDE JAPANの「LGBTQ用語解説」という一連の記事のうち、性的指向のページから引用した。
性的指向はSexual Orientationの日本語訳で、どの性別の人に性的に惹かれるか(または惹かれないか)という指向のことを言います。
では、アセクシャルにとっての性的指向とは何か。引用元のページには「性的指向を持たない、どの人にも性的に惹かれることがないという人をアセクシュアルと言います。」という記述がある。
数ある「性的指向」を説明するWebページの中でPRIDE JAPANを選んだのはこれが理由だったりする。そもそも「性的指向」が外国語の翻訳語である以上、翻訳前の言葉の意味を拾っていないと他の翻訳語と内容が被ったり、意味が広くなりすぎたりしてしまう(※2)からだ。
たとえば性的指向を「どの性別の人を好きになるか」と説明するサイトがあったとする。そのとき、性的指向を持たないアセクシャルは「どの性別の人も好きにならない」ということになってしまうが、それは誤りだ。アセクシャルは決して人嫌いでもなければ、他人を好きにならない人でもない。そのサイトではアセクシャルにはフィットしない情報を取り扱っていることになる。
アセクシャルの当事者として私が「どの性別の人に性的に惹かれるか」という問いに返答するとしたら、ページに書いてある例の通りに「どの性別の人にも性的に惹かれない」となるだろう。もっと真意に沿わせるなら、「どの性別の人にも性的には惹かれない」と答えてもいい。
このふたつの回答の何が違うかというと、単に性的指向がないことを提出するか、もしくは性的指向以外のものがあることを提出するかという点だ。性的指向はアローセクシャル(性的指向を持つすべての性的指向)の人にとって、もしかすると好きになる人の性別と同義かもしれない。
でもアセクシャルのコミュニティではそうとは限らない。先に書いたように、アセクシャルは他人を好きにならないという意味ではないから、人によっては誰かに性的ではない魅力を感じることがある。
※2 ここではアセクシャルをひとつの性的指向として扱うため、恋愛的指向も含むことばとしては紹介しない。
指向よりも惹かれ方
性的でない魅力としてよく例に挙げられるのが恋愛的な魅力だ。前回の記事で書いたのはスプリット・アトラクション・モデル(SAM)の話だったから「魅力」の話に終始したけど(そのはずがごちゃ混ぜになっているところもあったけど)、指向についてはちょっとだけ話が変わる。せっかくなのでここでも原点に立ち返って「恋愛的指向」の説明を読んでみた。
恋愛的指向(romantic orientation / affectional orientation)は、どの性別の人に恋愛感情を抱くかということです。性的魅力(sexual attraction)の視点に基づく情動の中の一つの構成要素で、性的指向(sexual orientation)と並列で(あるいは代わりに)用いられます。
あくまで指向の話をする限り、惹かれる対象の性別が分岐点であり軸となる。さっき、アセクシャルのコミュニティについて「誰を愛するかではなく、ある種の魅力を感じないことのみを共通点とする」と書いた。アセクシャルのコミュニティにあっても、他者に性的に惹かれないという以外の指向、たとえば恋愛的指向は多岐にわたる。
中には、恋愛的指向を使うことで初めて自身が魅力を感じる対象を表現できる人もいる。たとえば性的な惹かれは経験しないが、男性にのみ恋愛的な惹かれを感じる、という実態があれば、アセクシャル・マロマンティックということば(もしくは性的指向に代えてマロマンティックのみ)で説明できるからだ。
上記の「恋愛的指向」のページでもアセクシャルに触れられていて、アセクシャルの間では恋愛的指向と性的指向を区別することが大切にされると書かれていた。でもなぜ、アセクシャルのコミュニティばかりが性的指向と恋愛的指向を分けて考えたがるのか。これについては、AVENの魅力の項目を参照したい。
Asexual people often feel the need to specify both sexual and romantic attractions to make it clear what drives them and what they’re seeking from other people.
(アセクシャルの人は、何が自分を駆り立てるのか、他者に何を求めているのかを明確にするために、性的な魅力と恋愛的な魅力の両方を明記する必要性を感じることが多い。)
こうして惹かれる指向から惹かれ方について話を切り替えると、魅力の種類はいかようにも増えていく。惹かれの濃淡、惹かれの頻度、惹かれる相手との関係性や結びつきかたなど、本当にさまざまだ。繁殖を前提に回る世の中で繁殖を目的としない惹かれを誰かに説明したければ、あらゆる理由を語る必要性を感じやすいのかもしれない。
性的な惹かれがあれば惹かれる対象の性別を説明するだけで済む。でも性的な惹かれを経験しないとき、誰かと関係性を深めるときにセックスを必要としない場合には、他者に感じる魅力は性別の縛りから解放されていると言っていい。
性別から解放された場所
前回の記事にも書いたけど、アセクシャルのコミュニティにはシスジェンダーの人よりも(アンブレラタームとしての)ノンバイナリーな人の方が多く居る気がする、という体感がある。
自分の生殖器を使って他者と交渉しない人はたぶん、生殖器に沿った性別の役割を求められることに対して大なり小なり忌避感がある。もちろん他者からのジェンダー規範の押し付けは誰にとっても疎ましいものだけど、それにも増して能動的に避けている感じがする。あそこに居ると、自分の意志では決して必要としていない器官が備わっている自身の身体に対する嫌悪が薄っすらと浮かび上がるように見えてくる。
かくいう私自身も生殖機能が影響しない場面で性別を訊かれたら「その他」とかノンバイナリーとか答えることがある。社会が私にジェンダー規範の押し付けをやめない限りは、私が私に規範を当てはめない選択をして身を守ることにしたからだ。同時に、基本的にはからだの性別で分類されても違和感のない風貌と仕草で生活している。似合う似合わないについては諦めているし、理想に近づく努力をしている限りは特に不満もない。
でももし、自分の外見を何もかも思い通りにできるなら、一見しただけでは男性とも女性とも判断されない中性的な風貌に変身すると思う。私の好みの外見だからだ。自分の好きな装いと振る舞いをした上ですべてのアローセクシャルな人々の性的指向から外れることができるならハッピーだ。突き詰めればハムスターとかになるべきなのかもしれない。
上に書いたのは私の個人的なケースだ。アセクシャルでもセクシーな振る舞いをしたい人はいるだろうし、それが悪いことだともおかしいことだとも思わない。このコミュニティにノンバイナリーな人が多いという話がそもそも私の体感であって、もともと当てにならない話をしているので。
とはいえ、性別から解放される場所を求める人ってわりとその辺に居るんじゃないかと思ってもいる。講談社による女性向けマガジンFRaUには、2020年に「女性が「ゲイの友達」をほしがる現象の裏にあるもの 「都合のいい存在」からの開放」という記事が掲載されている。タイトル通り、女性が無邪気にゲイの親友を欲しがるのはメディアで長く描かれてきた有益なゲイの姿に影響を受けている、という視点から、女性の友人が多いゲイの当事者としての筆者の考えを読むことができる。中でも印象に残っている部分を引用した。
女性とゲイ男性が仲良くなりやすいという傾向は、たしかにあるかもしれない。実際、僕の親友は大半が女性だ。しかし、彼女たちは決して僕がゲイだから仲良くなったわけではないし、ゲイとしての役割分担を任されることもない。僕は異性愛者の男性と何ら変わりのない、同じ人間なのだ。ただ一つ、僕が彼女たちを性的な目で見ることが決してないという点を除いては。
女性として生まれた人間として、するりと納得できる分析だった。私がゲイの親友を欲しがることがあるとすれば、ファッションのアドバイスやユーモアたっぷりの刺激的なおしゃべりなんかには用がない。私が欲しいのは性的な視線を向けてこない親友であり、場所であり、時間である。つまり安全なコミュニティだ。
あとがき
最後に、アンジェラ・チェンの『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』(2023)を引用する。著者がアセクシャルを自認するに至るまでをつづられた第1章にはこんなくだりがある。
私がアセクシャルであるかもしれないという考えは、笑えるほどおかしく思えた。私はエイドリアン・ブロディは魅力的だけど、チャニング・テイタムはそうでもないと思っていて、また、俗っぽいユーモアに通じていた。
念のため、この部分には脚注が入っている。二者はともにハリウッドで活躍する俳優の名前で、エイドリアン・ブロディはどちらかというと優男のイメージがある一方、チャニング・テイタムは筋肉質で性的魅力のある男性というイメージが強い、と補完してくれている。
私もこのイメージにはおおむね同意できる。チャニング・テイタムはとても物腰柔らかで親切な話し方をするので見かけからは少し外れたイメージを持っているけど、それはまた別として。脚注では二者の代表作に触れていて、チャニング・テイタムの方で挙げられているのは彼の主演映画『マジック・マイク』(2012)だった。
自身の体を美しく鍛え上げた若い男性ストリッパーたちが、興奮した女性客を前に舞台に立ち、セクシーに踊りまくる映画だ。先に書いたけど、私は中性的な外見の人が好みなので、ダンスの上手さに驚きこそすれストリッパーの雄々しい肉体美には惹かれなかった。
ではなぜ観たのかと言えば、好きな俳優のマット・ボマーが出演していたからだ。彼がゲイをカムアウトしたニュースは日本に居ても聞こえてきた。ただし、ファンになったのは彼がゲイをカムアウトしていることを知る前、私が自分のアセクシャリティに気がつく前、女性との交際を経験するもっとずっと前のことだった。私は当時から自分に性的な視線を向けてこない人に惹かれていたらしい。