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刺激とストレス(と、それらの堂々巡り)

私が育った実家、とにかくお風呂(湯船)のお湯が熱かった記憶がある。私がこども時分はまだ追い焚き機能などない時代、家族全員がなるべく暖かくお風呂に入るための苦肉の策かと思ったが、後年追い焚き機能が備わった実家のお風呂に入ったが、やはり熱かった。実家のお風呂を仕切る母親の設定温度が、世間一般でいうところの「極熱」だった、というだけでした。

お風呂といえば、風呂無しアパートな大学時代4年間お世話になった京都市北区の「金閣寺湯」は、サウナの温度と水風呂の温度の高低差が、割とベラボーだった。下宿にテレビが無かった為、唯一観れるテレビが金閣寺湯のサウナだった。のぼせる頭を我慢してテレビ見てたら、鼻血を吹き出し、周りの京都人にはんなりと心配された事がある。

何が言いたいかというと、「刺激」と「ストレス」は、紙一重である、ということ。ある人にとっての「いい刺激」が、他の人にとっては「ストレスでしかない」こともあるし、「まったく何も感じない」という人もいる。

刺激として適度な「いい塩梅レベル」は、その人の中でも回を重ねるごとに少しずつ「強く」なっていく。そういう、依存性も「刺激」には付き物。気付くと、周りは置いてきぼりの孤高な存在にもなり得る。よく聞く、奥さんを亡くしてからの独居老人の味覚が、どんどんと塩味が濃くなるアレは、老化による感覚が麻痺してくるということでなく、パートナーを失い全てが「味気なく」なった生活に対して身体が求める日常的な「刺激」という一面があるのかも。

孤独による「心の拠り所」としての「自分以外への対象(健康的なものから犯罪性のある物まで)に求める刺激」を求道的に没頭する様は、映画やドラマになりやすい。美談に仕立てやすいのでしょう。でも、そういう物語って、成功者と同様にそれ以上に落伍者(廃人)も産んでいると勝手に想像。。
また、そういう刺激を求めた結果、客観性を著しく欠いた存在となる主人公は、周りの人間にとって「ストレス」になりかねない。その「求道性」は「自分勝手」とみなされ、人は離れてゆく。(そういう一面も、その手のドラマで間違いなく描かれる、あるある。)

私自身もそういうドラマや美談に影響されてかどうかはさておいて、「何者にかにならなければ」という焦燥感や劣等感を心の底で持っている。もう、本当に、いい加減要らない!何者にもならないでいい。私も周りも。しかし、心の底にこびり着く、そういう「何者にもなれない劣等感」が、私を、皆んなを「刺激への渇望」へ誘うのだ。

みんな、自分の「普通」を、周りを気にせず生きれれば良いのにねぇ。という理想を妄想しては、実現しないストレスを抱えて、私も日々の生活の中に「刺激」を求める。

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