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御朱印集めでマーラを追い払った話

コロナで旅行が下火なこともありここ最近は行っていないが、御朱印集めをしている。
旦那が高野山の御朱印集めをしていてそれを見せてもらったところ、思っていた以上に綺麗で羨ましくなったことをきっかけに、神社用とお寺用の御朱印帳をそれぞれ用意して、機会があるたびにもらってくるようになった。現在、神社は2冊目に突入している。

ここ十年くらいですっかり趣味のひとつとして御朱印集めは定着した感じがするが、御朱印集めがブームになったばかりの頃は『お参りもせずにスタンプラリー感覚でもらいにくる人がいる』と問題になったこともあるらしい。
それを知っていたので御朱印集めをはじめたとき、『必ず先に参拝し、お寺では読経をしてから御朱印をもらう』とマイルールを決めた。本当は納経(書いてきた写経を収めるのが一般的。その場で書けるところもある)が正式らしいが流石に写経を続ける自信はなかったので読経とした。
人目のあるところで読経なんてと初めは思ったが、これが案外気にされない。
やり始めて気づいたが、観光地にあるような大きなお寺では賽銭箱の後ろ辺りに読経用のスペースが用意されていたり、写経や読経をするひとは自由にお堂にあがれるスペースがあったりして、ゆっくりと参拝できるのだ。特に七福神巡りのような巡礼地は読経人口も多く、まったく目立たない。
ただし小さな寺の場合、『読経の方はご自由にお上がり下さい』と書かれていた小さなお堂で真に受けて上がって読経をしていたところ、襖が開いて奥より住職が現れ、うつむいて読経する私を見て静かに無言で襖を閉めたというハプニングも経験したことがあるので、やるときは心は強く持っていただきたい。書いてはあっても実際お堂に上がってくる人は滅多に出ない寺だったのであろう。襖を開けたら人がいた住職の恐怖は察するものがある。

そんなこんなで御朱印帳と般若心経をもって散歩しつつ都内の寺をよく巡っていたころの話である。

その日、私は上野にいた。
上野といえば上野恩寵公園だが、ここは元々は寛永寺というお寺の境内であり公園周辺には大小いくつもの寺社仏閣が今でも点在している。宗教施設なのでほとんどが公開されており、自由に参拝することができる。
動物園や博物館に近い観音堂や東照宮はいつも観光客でいっぱいだが、端の方の小さいお堂になるとお坊さんや寺男が掃除をしているばかりで人気のない寺も多い。私も有名どころを回ったあとに足を伸ばしてそういう小さなお堂まできていた。
そこも観光客もまばらで境内は人気なく、お堂の済でお坊さんがひとり掃除をしているばかりだった。
まずはお参りをしてさて読経を。と思ったとき、人気ないお寺に似つかわしくない物音が門の方から聞こえてきた。
「わー、こっち来ると静かね。古そうー」
「ね、こっち来るとは上野でも誰もいないんだよ」
べったりと体をくっつけたカップルが門から入ってきた。

いるよ。

入口から見えない関係者の小部屋にいるお坊さんとお堂の薄闇に溶け込んだ私の存在は勝手にないものとされた。
どうやら上野公園あたりでデートしていたカップルが人気のないところを求めてこちらにやってきたらしい。
このまま方向を変えて鶯谷(上野の山を降りたあたりから歓楽街となる)に向かうべきだと思うのだが、なぜこんな聖地にやってきてしまったのか…マーラか?カーママーラ※なのか??
※釈迦の悟りを邪魔する悪魔のこと。
今にもこれ以上のイチャイチャが始まりそうなカップルがこのまま我々の存在に気づかなかった場合、気まずくなるのは被害者のはずの我々である。それはなんとなく嫌だ。
ちらりと坊主を見ると、気づかないふりをすることに決めたのか無言で仏像に合掌している。いい感じのお説教でやんわりいさめたりしてくれそうにはない。
私は蛇腹の般若心経帳をささっと広げると、息を吸い込んだ。

「仏説摩訶般若波羅蜜多心経!」

腹の底から出す大声の読経にいちゃつく声がぴたりと止まった。今更ながら人がいることに気づいたらしい。あまりにもぴたりと止まったので若干悪霊の可能性すら出てきた。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意」
響き渡るお経は人の存在を知らしめるとともにいちゃつく空気を一瞬でなぎ倒した。
すごいぞお経。
流石はお経。
ありがたい言葉が煩悩を粉砕していく。御朱印巡りですっかり慣れた読経を終えて振り返ると、カップルの姿はどこにもなかった。
カーラマーラは去った。
あとにはちょっとすっきりした私と突然読経をあげだした参拝者に御朱印帳を差し出されてちょっと腰が引けた坊主だけが残された。

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