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エッセイ~幸せの評価~

「どんな好ましい出来事が微笑みかけても不幸な人間には無駄であると言いう意味において、つける薬がない。そして、幸福というものには、人が思っている以上に意志の力が働いているものなのだ」
~アラン著幸福論(訳:白井健三郎)より~


今までの道程を振り返った時、
今現在の自分からどう映るだろう?
「あの場面、今だったらこうするのにな」だったり
「あの時こうしていれば、その後どう分岐していただろう」
など色々と考えを巡らせることができるように思います。
そして私個人的には総じて「幸せだった」と評価するでしょう。

よくよく思い起こせば、いじめられたり、孤立したり、
別れがあったり、辛いことは山ほどありました。
けれど今、それも含めて幸せだったと言えてしまう。
それはなぜでしょう?
逆に同じ事象が起きた時、
ある人はそれを不幸だと評価するとしたら
そこの違いは何でしょう。
(ここでの文章は完全に個人的な仮想になります)。

①分離性
過去の事象は地続きではありますが、
昨日、今日があるように必ず区切りが来ます。
「今日は嫌な事があったけれど明日は変わるかもしれない」
といった風に切り替えられるチャンスの連続性とも言えます。
そして序文での問いは単なる分離された日々の
どこを切り取るかという作業でしかありません。
人は生きていればいい事もあり、悪い事もあります。
暴論かもしれませんが、
不幸8:幸せ2だったとしても
うまく2を切り取って今までの道程を
「幸せだった」と言い切れる、
そんな評価の仕方でもいいのではないでしょうか。

②評価の仕方
私は何かあるたび自分の立ち振る舞いを評価しているように思います。
前提として「自分」と「他者」は違うものだというもの、
また「過去の自分」と「今の自分」は別物だという感覚があります。
「過去の自分」を他者のように見ることによって
客観的に自分を捉えられるような気がしています。
また評価の際に気を付けなければいけないのが、
感情の波が凪いだ状態であるかどうか。
イライラした状態で評価しようとすると
評価対象に対しても辛辣な評価を下したり、
細かい所を見逃す可能性があります。
逆に言えば評価時の難易度は自分でコントロールができるということです。
簡単に言えば「自分に厳しく」とか「自分に甘い」とか
自分で決めていいということだと思います。

さて、幸せを評価するということについて
ざっくりと書いてきました。
実際うまくいかない自分の人生を
どうにかして「幸せだった」と自分を刷り込ませる
悪あがきにすぎないのかもしれません。
まあ、それでもいいんです。
それも技術です。
絶対的な評価なんてこの世に存在しないんですから。


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