「あ、君はそのタイプね」と分類されるのが嫌で仕方がないタイプ。
東大生にはメガネで、チェックのシャツを着る人が多いし、
エリート営業マンは、私服でパツパツめの半袖、ハーフパンツを着がちなように、
SNSで更新頻度の高い友人が、リアルではコミュ障気味なのはなぜなのか。
黒髪マッシュでキレイメな服を着る韓国系男子は、年上好きで犬系だと聞き、
僕はたまに髪をかきあげることにした。
海外にいるストーリーばかりを投稿するバイリンガルが眩しすぎて、
中和を図るために、僕は太宰を読むことにした。
仕事ゴリゴリタイプのサラリーマンの靴の汚れがいたく鼻についたので、
僕は爪磨きをし、指先にも意識を張るようにした。
昔から自分が何かのステレオタイプに分類されるのが嫌で、
そのタイプにありがちな特徴から逸脱しようとする気概がある。
天邪鬼とも言えるこの行為も、また何かのステレオタイプの一部なのだろう。
ステレオタイプとは、社会(心理)学にある概念である。
最近、MBTI(16personalities)は、もはやプロフィールのような役目を持っている。
新しい人に会った時、「ENFP(広報運動家)」と聞くと、過去の友達から同じ人を想起して、その人への対応と同じリアクションをしておけば、コミュニケーションがうまく取れる。
日系大手に行った友人
起業して日本国内を転々とする友達
趣味が筋トレとキャンプの同級生
カフェと本屋、美術館巡りが好きなあの子
SNSに友達との写真しか載せない女子
一方、ラーメンの写真のみ載せる男子
中学から知り合いのあいつと、新しくできた友人。
彼ら彼女らは明らかに他人であるはずなのに、行動特性、MBTI、趣味、友達のタイプに共通項があると、この音楽好きなんだろうなという仮説が案外当たったりする。誕生日プレゼントであげるものが似たモノを喜ばれたりする。
このように、人にはある一定のタイプがあり、そこには、分類は難しいけれど、ある一定の法則があるように思える。
自分がそのようにタイピングされているのが嫌で、偏見からは逸れようと、違った選択を取ろうとしてきた。
だから僕は、ガリ勉で真面目だけど、容姿には気を配り続けたいし、ベンチャー系でテクノロジーが好きだけど、Oura Ringは付けられない。ユニクロのクルーネックTシャツばかりを着ないように心がけてる、つもり。
自分は自分として、扱われたい。
どれだけの要素を持てば、自分のアイデンティティが確立できるかわからないし、何がアイデンティティを形成するのかわかっていない。
後から手をかけるものでなく、もしかしたら誕生した時点で決まっているかもしれない。(先日、友人にしてもらった誕生日占いがかなり当たっていた。)
自分は何者なのか。
自分の生き方、居場所をいつも模索している。