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月山富田城にロマンを見る
本日、地元戦国の雄「尼子」氏の居城『月山富田城』に行ってきました。
37℃の中、クラクラしながら歩きましたが、戦に倒れた強者共に手を合わせることが出来たと思います。
尼子氏
尼子氏は近江の守護大名『京極家』の分家で、出雲国の領主でもあった京極家から守護代として、代理統治を任されたのが始まりです。
初代京極高久は、近江国尼子郷に荘園を持っていたため姓を尼子と改め、出雲の国を統治しました。
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数代後の『尼子経久』は宗家京極氏に税を治めず、公然と独立する姿勢を見せたため、京極家に命じられた地元豪族に居城月山富田城から追い出されました。
出雲奪還
出雲国は京極家から新守護代に任命された『塩冶掃部介』が代理統治しましたが、浪人に身をやつした尼子経久は一計を案じます。
元旦の朝、富田城では『鉢屋(はちや)』という歌舞芸能集団を城に招いてお祝いの宴をすることに目を付け、鉢屋を抱き込み城門を開かせて旧臣たちと場内になだれ込み、月山富田城を奪還しました。
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塩冶掃部介とその家臣団は討ち取られ、富田川(現在の飯梨川)河原に数千の首が晒されたといいます。
以後四代後の義久の代で滅亡するまで、中国地方の雄として一時期は「十一ヵ国」を有したと言われています。
城郭下部の広場
月山富田城は城郭下部に『太鼓段』『花の段』『山中御殿』という広場があります。
さっそく「道の駅月山富田城」の駐車場脇にある遊歩道から登ってみることにしました。
太鼓段は武士たちに召集がかかった時に鳴らされる太鼓があった場所です。
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花の段に登ると、山陰の英雄『山中鹿介(やまなか しかのすけ)』が月に向かって「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った銅像がありました。
彼は尼子家滅亡後、尼子家再興のため生涯をかけて戦った武将です。
尼子再興軍を率いて戦い、播磨の国『上月城』で捕らえられて高梁市で毛利に殺害されましたが、忠臣の誉として戦国ファンに愛されています。
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今はマイナーな感じですが、戦前、戦時中は日本一有名と言っても良いくらいの人気者だったそうです。
花の段から少し上がると『山中御殿(さんちゅうごてん 広場自体は御殿平という)』という広大な広場が現れます。
ここは尼子家当主の居館であるとともに、軍事、政治の中心となる建物があった場所です。
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ここからが難攻不落の真骨頂
御殿平から恐怖の『七曲り』という九十九折の坂が現れました。
月山は四方を峻険な崖に囲まれ、唯一この七曲が本丸に通じる道となります。
崖の斜面に作られたジグザグの道は、大軍でも一列でしか上ることが出来ず、城兵から弓矢や鉄砲で狙い撃ちされるという恐怖の代物。
しかし、ここからしか本丸に登ることが出来ず、これ以外の崖は人が登れる代物ではない峻険さです。
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登りきるとようやく二の丸、本丸となります。
二の丸の当時を再現した建物の中で、絵葉書と栞をタダでいただきました。
汗だくになって登って来たかいがありました。
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本丸には尼子家以前からあるのか、尼子家が建立したのか、小さな神社がありました。
勝日高守神社というこの社は、尼子軍が戦をする際に戦勝祈願をした神社だという事です。
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山中鹿介住居跡
月山富田城を下り、北側の新宮谷に車で移動しました。
ここには尼子家家臣 山中鹿介の屋敷跡があります。
近くに車を止めて民家の裏にある屋敷跡に行ってみました。
けっこう広い敷地で、尼子家一門衆だった山中家の権勢がうかがわれます。
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以前この場所と、勝日高守神社でヘビを見ました。
月山富田城に来ると、必ずヘビが姿を現します。
尼子の武将がヘビに乗り移って、出迎えてくれているようで毎回嬉しく思っていました。
今日も太鼓段の登り口で、大きなヘビを見ました。
新宮党居館跡
尼子軍の最精鋭部隊、新宮党は尼子家当主『尼子晴久』の叔父である国久が率いた一党で、後に当主晴久によって一族全て誅殺されました。
毛利の謀略だとか、説は色々ありますが軍の中央集権を目指した晴久にとって、障害となったので誅されたというのが本当らしいです。
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尼子晴久はすでに戦国中期から軍の命令系統を一本化すべく、出雲の豪族に領地を差し出させ、手柄を上げたものにはそれ以上の見返りを用意して軍の一本化を成し遂げました。
全ての豪族は尼子家家臣となり、実力主義と命令系統の統一がなされた尼子軍は、晴久存命中は向かうところ敵なしで毛利元就は何度も敗戦の憂き目を見ています。
新宮党は既存の権益が損なわれることに反対して、軍制改革の妨げとなったので居館のある新宮谷で皆殺しにされたのだという説が有力です。
尼子家滅亡後、山中鹿介は新宮党の唯一の生き残りである尼子勝久を当主として再興を目指したのは皮肉です。
荒法師『塩冶掃部介』の墓所
新宮谷の一角に、尼子経久に鉢屋の元旦決起で首を獲られた塩冶掃部介の墓所があります。
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ここは以前来たことがありますが、その時は草が生い茂った荒れ地に墓石がポツンと建っていました。
今回行ってみると、すぐ脇に新しい道路が出来て、草も刈られて花が添えられていました。
ここは別名『荒法師』といい、無礼なことをするとすさまじい祟りがあると言われていました。
今は村の人に丁寧に墓守をしてもらって、祟ることも無くなったのかもしれません。
最悪の戦国時代をロマンと感じるのか
今回月山富田城をたずねて、戦国時代のロマンに浸りましたが、当時は人々にとって最悪の時代だったと思います。
計略で塩冶一族を滅ぼし、一門の新宮党を根絶やしにし、最後には兵糧攻めで飢え死にする者まで出して毛利に下ります。
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今の時代の私たちにはロマンと感じるものも、現場をその目で見た者は心を病むほど殺伐とした時代だったに違いありません。
当時も今も、戦とは惨く悲しい出来事であることを認識したうえで城めぐりをしたいと思います。