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[小説]離陸#5~陽太郎の話~

 主な登場人物
①弘義の周りの人たち
・飯島弘義…大学一年生、探偵のバイト中
・大道津長…弘義の4つ上。中国で出稼中
・針村…弘義の2つ上。探偵事務所の先輩
・松嶋…探偵事務所を経営している黒淵眼鏡男
・陽太郎…T城市周辺に住んでいる。小学校の頃の同級生

②探偵先の周りの人たち
高橋家
・白髭…家でボーッとしているおじいちゃん。弘義が8月の一ヶ月間介護をしていた。
・老妻…ケチ。ただ、心の奥底は優しい。
・高橋淳一…白髭と老妻の息子。船の事故で、亡くなってしまった。
・淳一の細君(梅原)…淳一と同様に、船の事故で亡くなってしまった。
・高橋三鶴…淳一の娘。わけあって、弘義が探すことになった。
・高橋洋介…三鶴の弟。三鶴とは真逆の性格をしている。梅原家にいるようだ。
梅原家
・梅原の旦那…淳一の細君の父親。白髭と仲が悪い。
・梅原の奥さん(小夜子)…淳一の細君の母親。

三鶴の高校周り
・N高校   …三鶴の通っている高校。
・T城駅    …N高校の最寄り駅。
・駅前のCafe…T城駅近くのCafe
・西口小春 …三鶴の親友。捜査に協力してくれることになった。
・熊谷武  …三鶴と一緒にいた男。地元では有名人らしく、俳優をやっているらしい。

陽太郎と僕は、渓流沿いを共に歩いていた。
「それで、お前はその熊谷って奴に会ったのか」
「あぁ」
陽太郎は立ち止まると、僕の方を見た。
「なぁ、弘義。今回、お前を呼んだのは、他のことでもねぇ。お前の捜査に協力出来ないかと思ってな」
「でも、電話では知らないって」
「親の前で、俺の事情言えるわけねぇだろ」
「どんな風に協力してくれるんだ?」
「あぁ。少しばかり長い話になるんだが、聞いてくれないか」
「もちろん」

 陽太郎は、小学生のころ、告白した女の子と付き合うことが出来た。ちょうどそれが小五の修学旅行の時だった。彼は女子部屋へ一人で突っ込んで行って、想いを伝えた。男子たちは野次馬をこれでもかと動員したが、全部女子に引き留められた。陽太郎は一歩も引かず、目的に向かっていった。すると、彼女は「無理です」とはっきり言った。
 これを野次馬たちが何人か聞いていて、それぞれの部屋に走って帰ってきて、「陽太郎、フラれたぜ!」と叫んだ。陽太郎は無惨に散ったが、学校生活の中のたった一時、陽太郎は彼女と二人っきりになることがあった。彼は最早、心臓が動くことは無かった。もう終わったことだと投げ捨てて、ランドセルを背負おうとした。
「待って」
彼女は陽太郎の両腕を握った。
「私、貴方に悪いことした」
彼は彼女の目の中が輝いていることに気がついた。何故か。
彼は彼女の涙が、分からなかった。
「私は、皆の前では言えなかったけど、貴方のことが好きなのよ」
顔を赤くして、両腕を強く握って、彼女は必死になっていた。陽太郎は古傷をえぐられるような気持ちだった。腹の奥が熱くなっていた。この時ほど、恋ほど不徳なものはないと思った。 
 陽太郎は言葉がでなかった。彼女を振りほどく力もなかった。ただ呆然としていた。腹の奥が熱くなるのは、ひょっとしたら怒りなのかも知れないと思っていた。
一回断って、それを訂正することは許されるべからずものだと思っていた。ただ今、目の前の彼女に振り回されている自分は、おかしな存在だった。

 彼の信条は、その頃、小学校と家族だけに作られていた。小学校の低学年の頃、彼はありのままでいいとだけしか思っていなかった。だから、学校のテストの点数なんて、何も人生に影響することはないと思っていた。
  ただそのように過ごしていた一方でテストの点数を、担任の先生や、家族に酷くケチつけられていたのが、彼の心を暗くしたのも事実である。
 彼は、いつの間にか、勉強に振り回されていることを知りながら、苦しい自分を押し殺してまで勉強していた。
 
 教育…点数を算出されて、周りと差をつけようとするという歪んだ心を育てるところ。
 家庭…自分達はあまり勉強をしないくせに、人に勉強を強要させてくる。体が近いようで、心が遠い。
 友人たち…人にもよるが、結局完全に分かり合えたように思えても、何処か誰もが尖っていて、結局心は落ち着けない。

 彼は幼い頃にそこに気づいていた。ひがんでいたのは周りの担任の先生や、家族ではなく自分かも知れないと寂しく笑った。
 つまり、彼には誰にも振り回されない勉強を第一義とし、プライドという壁を作り、心許せる人と一緒に彼のプライドで稼いだお金で暮らしていくことが彼の人生の夢。彼の生まれてきた意味だった。つまり、勉強というものが無ければ、人は離れていくとすら思った。
 彼が告白したのは、隣になった時に、彼女とすごく馬が合い、色んな勉強を教えていくなかで、彼女と二人っきりの世界の中で生きたい、自分のプライドを強固にしてくれる彼女と過ごしたい。そのためには彼女は彼だけに尽くしてくれることを望んでいた。彼女を自分という糸でくくりつけることで、彼女を誰からも保護しようとした。そして、女子部屋で告白したのも、他の女子が見て、彼女以外の人に彼女は自分の次に陽太郎が大切なんだ、そう思わせて、友人関係に垣根を作らせようとした。

 だから、両腕を必死に掴んで、涙を溜めている彼女を見た時は、内心満足していた。彼は彼女とキスをした。唇同士が触れあうだけだったが。それから彼女は陽太郎のものになった。
 だがしかし、また彼の壊れた思考が、すぐに彼の人生を狂わせようとしていた。受験の前に彼女とデートなどしていると、とにかく彼女より先に受験のことに頭を縛られるのだった。周りにバカにされないように勉強していた陽太郎にとって、今回の思考は極めて新鮮だった。周りにバカにされないように、がいつの間にか受験に落ちないようにでもなく、分からないところは自分が許さない、というようになっていた。
 例え、小学生と言えども限られている時間、陽太郎は彼女に鋭い炎が燃え上がるのを感じた。
「もう俺と別れてくれ」
こう言ったときの自分は、半ば自分を恐れているようでもあった。だけど、彼女は嫌だ、嫌だと駄々をこね出した。それが彼の信条にどれだけ抵触したことだろう。小学生であったと言い訳するしかないのだが、彼女に暴力を振るった。
 殴るわけでもなく、蹴るわけでもなく、その柔らかい頬っぺたを五本の爪で引っ掻いた。彼女は泣きながら「痛いからやめて」と叫んだ。その悲鳴すらも僕の頭に抵触していた。そこからの記憶は曖昧になっている。
 彼はすぐさま悪いことをしたと思った。だけど、そう思ったときにはもう彼女はいなくなっていた。

 それから陽太郎は中学校に進んだ。彼は受験に失敗をしたことをひた隠しにしていた。第一志望の中高一貫校には受からなかった。第二志望などには、受かった。彼はこれでもかと言うくらい受験に失敗したという非を、同級生にあるとした。こいつらが俺の時間さえ奪わなければ受かったかも知れないのだ。その考えを持ち始めたとき、彼の肩を持つ同級生などいるわけがなかった。でも、ちょうど引っ越しのタイミングが来ていた。彼はそれを天がくれた唯一の光であるように感じていた。
 彼は誰にも見られることなく、受験に成功したかと思わせて雲隠れをした。ただ妄想だけが彼の頭を支配した。彼らは今頃自分のことを笑っているのではなかろうか。告白した彼女は彼を恨んでいたりはしないだろうか。受験が終わって、小学校を卒業するまでの間、彼女は遠くから彼を見ていた。「もう受験は終わったんでしょ。だから、いいでしょ。私待ったのよ」と言いたそうな彼女の姿勢は、受験に落ちた彼にとっては傷口をえぐるようなものだった。今になって考えてみてもなぜ告白したのだろうと感じていた。浮世に身を任せて、そのまま過ごしていれば良かったのに。今の彼と、あの頃の彼は逆の存在になっていた。

 中学校に進むと陽太郎は小学校の頃と負けないくらいに勉強した。もう、愛とか恋とかどうでもよかった。ただ大人たちが真面目な顔して教えてるものを、期待してるものを、ただ一心に応えたかった。もう、二度とあの悲劇は繰り返すまいと思った。ただ部活に入らなければならないので、テニス部に所属した。
 中学校の三年間は彼の心理状態に影響を与えるものはなかった。彼は小学校の反省から恋などもしなかった。とにかく彼は消極的になっていた。
 彼はとにかく普通さを貪欲に求めていた。引っ越してきたばかりだったので誰も彼を知っている者はいなかった。部活の連中とは沢山絡んだが、これと言って親友も出来ること無く終わった。だから、部活以外の人たちは彼と話したことを笑い話として皆にするのだった。
「俺、あいつと話したことあるけど、いい奴だったぜ」
軽い人たちは悪気無く笑い話をするが、その軽さというものは彼の頭に触れたのだった。でも、決して表には一つも出さずに、当たり前の物を見るように、受け取った。
 中学校の彼の心は、誰も目に触れない暗い部屋の中にあったと思う。彼の心は誰と会うことも、誰と話すことも拒んだのである。彼の親は彼に勉強しようとは言わなかった。むしろ、その逆で少し遊んだらと言う。
 だが彼は一人ぼっちで静かな自分、誰にも認めて貰えず、その場所で半日以上を過ごさなくてはならないことに対して辛さを感じていたことを自負する。
 恐竜の絶滅の原因は、隕石の落下によるものとされている。そこから氷河期が訪れ完全に生き物は死滅した。それと同じように、隕石の落下は小学校での恋愛沙汰だった。氷河期はつまり中学校時代にあたる。もうその三年間で、自分という存在は消えていた。彼は、いなくなった自分を探しもせず、助けもせず、繕うこともしなかった。
 それから高校に進んだ。その時間はとても淡白で空虚で、心にある古傷には蓋をしたが、その傷を直すことよりも、もっと大事なものを失ってしまったことには、彼は気づくはずもなかった。

 高校生になると、転機が訪れた。相変わらず高校生になっても勉強が第一義ということは変わらなかった。ただ彼の心の中には一つの野望がみなぎっていた。
「恋がしたい」
 ここまでの話を聞いていると矛盾しているこの野望を、この気持ちを誰が分かってくれるというのか。
 恋というのは病というのはよく言ったもので、何の前触れもなく胸の中に、訪れる。
 彼はこの心理を説明できなかった。なぜ自分のような人生を送ってきたものがこのような気持ちになるのか。人は親に愛されることで、愛というものを覚えて、それをいつまでも忘れない。だから、恋というのを胸の中にしまっている。というのを何処かで聞いたことがある。知らず知らずに親の愛を受け取るように、知らず知らずのうちに恋をしていたということにしておく。(つまり本能的恋だったということだ)
 部活は弘義もご存じの通り、テニス部だった。陽太郎と三鶴は2年離れていて、3年生で陽太郎と三鶴は接触は可能だった。だがしかし、3年生よりも前、2年生の時、彼は三鶴に会ったのだった。
 陽太郎はその真面目な性格で部員からの信頼を得ていた。端から見れば、古傷に気づくはずもない彼らにとって、彼は信頼できる人柄だった。中学校からテニス部に入っていたので、実力としても申し分なかった。彼はテニス部の部長に選ばれた。
 それからは、部活で忙しく働き、全く話さなかった中学時代と比べて大きな躍進に違いなかった。しかし、心のなかは…昔の自分と何ら変わりは無かった。その事があの事件で炙り出されるまでは…。

 三鶴と会ったのは秋の涼しくなってきた頃に行われた文化祭の時だった。彼はテニス部を盛り上げようと、テニス部で忙しく働いていた。その日より前までは、クラスのカフェの準備に追われていた。クラスで、彼はそんなにリーダーシップを発揮することはなかった。クラスでは勉強にしか目がなかった。
 カフェの外装を夏休み中は手伝ったくらいで、後はテニス部で何をやるかだった。ただテニスをしてもつまらない。何かやれないか。彼はずっと考えていた。
 すると、副部長の後藤が陽太郎の元にやってきた。
「うちの後輩がテニス部入りたいって言ってるんですよ」
もう受験の合否より前にそんなことを早々に決めているんだな、と思った。
「そうか、それは嬉しいことだ。ところでテニス部が文化祭でやれることってほとんどない気がするよな」
陽太郎が言うと、後藤はそうですね、と間が悪そうに言った。
「あの、僕たちがずっとここにいるだけで、いいんじゃないでしょうか。そうすれば、色々と話しも出来たり、ラリーもしたりできるじゃないですか」
「わざわざテニスコートを使って?」
陽太郎は悩んだが、結局それしかないなと思った。それで時間を設けて、テニスコートを貸したり、部員たちと話をしたり出来るなと考えていた。後は、クラスのカフェでも手伝ってみるかと思った。でも、陽太郎の心の中はとても忙しいということに新鮮味と心地よさを覚えていた。
 二時間程度、テニスコートにはそんなに人は集まらなかったが、今現在テニスをしている人や、親子連れなどで賑わっていた。二人組でテニスがやりたそうだったら、その子達にテニスコートを二十分程度貸したりした。皆、とても満足そうだった。
 その中で三鶴を見つけた。三鶴は小春と来ており、こんな子達が来たらテニス部で話題になるだろうなと思うくらい一線を越えた綺麗さだった。
「あれがこの前言っていた後輩たちです」
後藤が僕に耳打ちした。彼はジェットコースターに乗るときのように、ワクワクする一方で怯えもした。こんなに可愛い子達が入ってきたら、練習に集中できるだろうか。彼は歯がゆい思いがした。
 彼女たちはテニスの練習をして、その後、息を切らしながら僕らの方へ来た。
「後藤先輩、こんにちは。後藤先輩の言うとおり、ここのテニスコートは広くていっぱい練習できそうですね」
三鶴が言うと、彼は彼女の高く鋭いその声が、この美人から発せられていることにギャップ萌えしてしまったのである。彼は挙動不審のように彼女を二度見していた。後藤に目が合っていたので幸い不審がられることはなかった。
「テニスも強いんですか」
小春が聞くと、後藤は「えぇ強いとも!」と彼女たちを笑わせていた。昨年の結果は個人では県大会まで行くものもいたが、団体では大したことが無かった。陽太郎はそれを黙っていた。
「ちなみに、この人が部長さんだ。怒ると怖いぞ!」
またもや彼女たちは笑った。陽太郎はどうしたらよいのか分からなかった。
「後藤先輩とどっちが上手いですか」
三鶴が例の甲高い声で訪ねると、親指で俺、といった感じで、またもや二人を笑わせていた。
 すかさず陽太郎は、俺だろ!と横槍を入れた。しかし、彼女たちの反応は少し笑っていいか戸惑っていたように思えたが、軽い苦笑はしてくれた。陽太郎は、彼と後藤に見せた笑いの違いが何なのかは分からなかった。その瞬間は風に遊ばれるホコリのように去っていった。
 二人が去った後、後藤は陽太郎とテニスコートのトンボかけをしながら話していた。
「あの二人可愛いだろ」
後藤が言うと、陽太郎は思わず広角が上がってしまったので、頷いた。
「あの子達は、中学校のテニス部でも人気だったんだよ」
「後藤も好きだったの」
「いや、俺はその学年が違うからなんつーか、恋愛対象としては見てないっていうかさ」
後藤の口に間違いはなかった。後藤は彼女たちの美貌に慣れているのだ。
「俺、中学校の頃、部長やってたからさ、あの子達高校でも俺が部長だと思ってるらしくてさ」
後藤は陽太郎に言った。
「ちなみにテニスは出来る方なの」
「出来る方でも無いけど、出来なくもないね。ただ力がないから強く返せないのが弱みと言うか」
陽太郎は力のない彼女たちを想像して、また一つ心臓の鼓動が速くなった。

 二回目に三鶴に会ったのは最初に会ってからすぐのことだった。三鶴は一人で、僕のいるカフェに乗り込んできたのだった。彼は幸いにも独りよがりの時ではなく、クラスのテニス部員たちと今日のことを話し合っていたために、本性を暴かれずに済みそうだと思った。
 彼女は陽太郎と目が合うと、すぐに寄ってきた。先程は高橋と背中に書いてある体育着を上下に来ていたが、何処かで着替えたのか白シャツに黒いスカートという格好で彼のもとに現れた。随分と大人びて見える彼女に、他の誰とも違う、他の誰よりも会いたいが会うと正直辛いという感情が芽生えていたと思う。
「部長さんですよね」
彼は、後藤と取り次ぐ小さな存在でしかないと思っていたので、あたかも普通に振る舞った。
「後藤くんは、五組で出し物してると思いますよ。ですから、案内しましょうか」
 いかにも真面目に答えると彼女は口を結んで彼の方へ向き直った。
「いえ結構です。あの、部長さんに用があります」
部長さんと呼ばれるのが、嬉しかった。
「高橋さんでしたっけ」
「はい」
彼女は笑顔を見せた。陽太郎は彼女がとても笑顔を見せていたので、挨拶代わりに笑顔を見せた。
「用件とは」
「はい。あの、この高校に入れるのか心配で、私は小春みたいに頭良くないし」
彼は不意を突かれた。勉強のことを聞かれるのは小学校の時に別れたあの女子以来のことだった。陽太郎は何を話せば良いのか分からなくなった。
「後藤先輩に相談したら、部長さんに聞くのがいいと」
陽太郎は頷いた。
「確かに、後藤くんに聞くのはやめた方がいいかも」
彼が少し攻めた返答をすると、三鶴は口に手を当てて笑っていた。
「それで高橋さんが悩んでいるのは、受験のことなの?」
彼女は「三鶴」と言った。どうやら、「高橋さん」では気にくわないらしい。
「み、三鶴」
陽太郎が呼びかけると、「はい、何でしょう」と言って笑っていた。
 陽太郎は、クラスでは話さずに、廊下に出て話していた。誰にもこの空間を邪魔されたくなかった。
 彼は三鶴と連絡先を交換した。全てが流れに沿っているようだった。三鶴は勉強で分からない時は連絡する、といって別れた。彼は彼女が彼に近づいてきたのは、連絡先を交換するためだけだと思った。小春を置いてなぜ、この解を何度も確かめ算するのが一時期の彼にとっては勉強のモチベーションだった。彼は三鶴との愛を誰よりも信じていた。

 三鶴と次に会ったのが、入学式だったことはまだ記憶に新しかった。彼女はN高校の制服に身を包んで現れた。幼さと大人っぽさが同棲する彼女の顔はずっと見ていられた。彼は遠くの方でもいつも彼女を探していた。学校にいる時には、曲がったところにいるのかな、とか教室で授業を受けているのかといつも妄想ばかりしていた。
 部活はテニス部に入ってくれたし、彼女は彼と文化祭の時よりもっと親密に話してくれるようになった。陽太郎は人生の中でこの日々ほど楽しいことは無かったと、今でも思う。毎日が楽しくて、急に広角が上がることすらあった。
 ただ最高の日々は長く続くはずは無かった。それは中間試験だった。彼は総合得点のクラス順位を十位も落ちてしまった。さらに学年順位に関しては、八十位近くも落ちてしまった。彼は部活の活動にしても、誰と話すときにしても、この順位、このバカな自分が鼻についた。
 その事は後のことに大きな影を落とすこととなった。学校のことは思い出すだけで、苦しくなった。ひょっとしたら自分は勉強には元から向いてなかったのかと思った。小学校の頃にあれほど苦労して、第一志望に受からなかった。逆に、全く勉強してなさそうな人たちが受かっていた。
 もうバカにされたくなかった。自分に知らないことがあってたまるものかと思った。ただやる気だけがなかった。勉強しようとすると、頭に入ってないのだろうか、と考えてしまい手を止めてしまう。そんな時、携帯の画面が光った。陽太郎にとってそれは希望の光のようだった。
「夜分にすいません。長文失礼します。
五月のGWに鎌倉に行きませんか?小春の親戚の家があるそうで、そこの近くにはテニスコートもあるらしいです!今、参加しているメンバーは小春と私と熊谷さんです(小春の親の繋がりだそうで、俳優だそうです!)。熊谷さんもテニスが上手だそうで、私たちの相手じゃ務まらないので、実力的にも部長さんがぴったりだと思いました!
  日数はゴールデンウィークの四日間です。もし行けるなら、早めにご連絡お願いしたいです!」
彼は、この熊谷さんという人が誰なのか気になってしょうがなかった。それを通り越して妄想がどんどん膨らんでいた。それでも、勉強というものがそれを抑えていた。勉強と恋に板挟みになっていた。
 「熊谷 俳優」と検索すると、熊谷武という男が出てきた。顔は軽そうな男で、ほとんど笑顔の写真しか出てこなかった。それでも陽太郎よりはカッコいいと認めざるをえなかった。自分はこの男と仲良くなれなそうな気がしていた。画像には友達十人くらいと行っているディズニーの写真があった。男女混合で、彼とはほど遠いように思えた。彼は小さな部活動をしきっている一人でしかなかった。

 部活は四日間、休みの日があった。塾も休みだったので、その時の間に鎌倉に行くことにした。ただし、陽太郎は自分が受験生だということ、受験勉強が周りより出遅れていることを忘れられなかった。バッグの中には着替えと、海水パンツ、勉強道具が入っていた。彼は、テニスをして、勉強して、…などを想像していた。つまり、勉強部屋くらいは借りようかなと思っていた。
 当日になると、鎌倉駅に陽太郎、小春、三鶴が集まった。ただいつまで経っても熊谷の姿が無かった。彼は内心喜びつつも、周りをしっかり見て探している振りをした。
「私たちの姿なんて分かるわけないよね」
と小春が言う。小春は白のブラウスに水色のショートパンツ、それにラフなスポーツサンダルを着ていた。陽太郎は半袖半ズボンのダサい服しか着てこなかった。そんなに見ていないだろう、と言い聞かせた。
 一方の三鶴は黒いワンピースを着ていた。肩はふっくらとはしていなかったが、その小さな肩が、胸を締め付けた。スポーツサンダルをこちらも着用していた。
「もう行こうよ」
三鶴は言った。陽太郎は内心喜んでいたが、残念そうに頷いた。
 小春の母方のおばあちゃんの家は由比ヶ浜の近くにあった。家の二階から海が見渡せる景色が素晴らしい場所で、外観は和風の一軒家という感じだった。
 入り口を潜って、庭園を通って玄関に向かう。池の中には、多くの錦鯉が泳いでいて、三鶴がそこで足を止めた。三鶴は感心して、小春と友達になれたのを、一生自慢したくなるくらいの気持ちになっていた。
 池の向かいには縁側があって、そこに小春のおばあちゃんである喜代恵が座っていた。こんにちは、と三人は挨拶をした。
 玄関から中に入り、T城駅から遠く離れたこの空気を吸い込むことさえも涙が出そうになっていた。ずっと陽太郎は外なんて出てなかった。勉強した方がいいと、親からの誘いを受けてもいつも断っていたからだった。
 喜代恵は汗だくの三人を見て、「暑かったでしょう」と三人分のコップに冷たい麦茶を入れていた。一気飲みでは喉も痛くなるくらい冷たいそれを飲むと一気に気分がリラックスできた。
「おばあちゃん、熊谷さん来てる?」
「あら、一緒でないの?」
小春は首を振った。喜代恵は後で電話をすると言った。
 喜代恵の旦那である幸之助は、あいにく病院に入院していた。末期ガンだった。喜代恵もあまり人には言えずに、いつ死んでもおかしくないものとして棚上げしていた。寝たきりの幸之助を見ても仕方がなかろう、帰って別れが辛くなるよ、というのが喜代恵の論だった。それでも、一ヶ月に一回は必ず幸之助の所に行くことにしていた。
「幸之助の所に行きなよ、かなり寂しがっていそうだから」
喜代恵がいうと、小春は「はぁい」と大きな声で答えた。
 喜代恵と小春が何事か話している間、陽太郎と三鶴は二人きりで縁側のある部屋の机を囲んでいた。陽太郎が三鶴と呼んだ日。陽太郎の呼び方は陽太郎さんとなっていた。彼はそれをすごく心地の良いものとして受け取っていた。
 彼は喜代恵にあげるためのお土産をバッグの中から取り出した。T城の地元のものだった。三鶴は何やら少しばかり趣向が変わっていたのを持ってきていた。
「私ね、T城駅から電車で十駅くらいの場所にB駅近くに住んでいるの。そこで買ったお土産なんだけどどうかしら」
陽太郎のお土産は、ざっくり言うとあられだった。彼女のお土産は羊羹やまんじゅうが入っていて美味しそうだった。彼は彼女のお土産をセンスがいいと言って褒め称えると、三鶴は含み笑いをした。
「ちなみに、B駅はどう言ったところなんですか」
彼は、話題を引き伸ばそうとした。でも、彼女は真顔になって答えていた。あんまり知られたくないのだろうなと悟った。
「私のところは、海の近くで温泉宿が有名なの。夕方になると、多くの客がいつも出入りしているわ。でも、良いところよ」
素っ気なく答えると、彼女はごめん、トイレに行ってくる、といい去っていった。
 三鶴が帰ってくると、小春も喜代恵も丸テーブルの周りに集まってきた。
「つまらないものですが、地元のお土産です」
陽太郎が喜代恵に頭を下げながら言うと、満面の笑みで「ありがとね」と言った。三鶴も同様にした。
「あのね。今小春ちゃんと話した結果、まずお腹が空いてきたと思うからご飯を作るわ。カレーで良い?うん、カレーにするわ。それと熊谷さん。熊谷さんはあいにく仕事が入ってしまって、明日になったら来れるそうよ」
三人が分かりました、と頷くと喜代恵は台所の方へ消えていった。三人で午後の予定について話していた。

 まず小春は熊谷さんがいないから、テニスは三人だと一人余るから、やめとこうという話になった。その瞬間、一番気が気でなかったのは陽太郎だった。陽太郎はテニス以外のことは全部昔と変わらない。彼はこの少女二人をどう扱えば良いのか分からなかった。部長の時は、ただ自分から率先してしきるだけであったが。
 三人はずっと何をするか迷っていた。
「大仏でも見に行く?」
小春が言うと、三鶴と陽太郎が顔を合わせて頷いた。
「ちなみに見たことある?」
小春が聞いた。陽太郎はあるにはあったが、大仏の中には入れなかったので行きたいと思っていた。
「その後、私考えていることあってさ」
小春がここは率先して舵を取った。(本当は陽太郎が取るべきだが)
「せっかく由比ヶ浜に来たからさっそく海行こうよ!」
彼女のその提案に、三鶴は喜んだ。陽太郎は心臓が飛び出るほどのことだった。こんな俺が…女子二人と?しかし、外面は「いいね!」と言って笑いを浮かべているだけだった。
「陽太郎さんは、二階にある部屋に着替えてきて。そこが陽太郎さんの部屋になっているから。敷布団が押し入れの中に入っていて、それが陽太郎さんと熊谷さんの分ね」
小春は言った。彼女たちも水着を準備し出したので、彼はじゃあ着替えてくる、と言って二階に上がった。。
 二階には部屋が2つあった。そのうちの1つを使わせてくれるらしかった。もう片方は、喜代恵の部屋だった。
 足の膝小僧くらいまでの四角いテーブルがあって、そこに二人分の座布団があった。冷蔵庫やテレビもありクーラーもある。ベランダから見る景色は素晴らしく、住宅街の向こうに由比ヶ浜のビーチが見えた。人の動きが分かるくらい近かった。
 陽太郎はさっそく荷物を置いて、座布団の上に寝転がった。やっとリラックスできる、と思った。でも、早めに着替えた方がいいかと思い、バッグの中から水着を取り出した。そのバックから垣間見える勉強道具が、彼を迷わせることは一瞬だけだった。
 水着を着て、私服をその上に着て少し部屋の中を見て回った。部屋の本棚の中に沢山の本を見つけたのだ。赤川次郎、西村京太郎、東野圭吾、など多くのミステリー作品が中心となるなかで、角田光代、夏目漱石、村上春樹などかなり沢山のジャンルの本があって面白く見物した。
 下へ降りていくと、部屋の中へはとても入りづらいような気がしていた。彼は部屋に入らずに、キッチンへと移動した。すると、喜代恵がいてカレーライスを皿に分けているところだった。
「もうできるわよ。ここの机で食べる?」
 彼は急に聞かれたので、迷っていた。
「庭園見ながらの方がいいよね」
彼女に念を押されたので、陽太郎は頷くと先程のリビングに帰ることにした。
 急に入るのも失礼なので部屋をノックした。
「入っていい?」
彼が聞くと、三鶴の声がした。
「ええ?どーしよっかな」
三鶴と小春の声が聞こえた。
「ねぇマジで答えてよ」
三鶴と小春は笑いだした。彼はからかわれることに多少の不安を持っていた。

 カレーを食べて、高徳院に向かった。喜代恵は後で由比ヶ浜に向かうので、高徳院からそのまま由比ヶ浜に向かうことにした。
 高徳院の大仏は、多くの観光客で賑わっていて、外国人も多く見受けられた。彼の願い通り、大仏のなかに入ることも出来た。
 彼女たちはテニスの部員の話や、部活のことを陽太郎に聞いて盛り上がっていた。正直な話、陽太郎で無くとも部員であれば、誰でも話を盛り上げることが出来たろうと思っていた。
「後藤先輩って正直言って嫌です。いつも強引だから」
と三鶴が言う。彼は驚いて三鶴を見ていた。
「ひどいですよ。中学校の頃なんて、最後の大会で負けたのは全部俺以外のせいだ、なんて言っちゃって」
「その時は、団体戦で後藤先輩しか勝てなかったのよね」
小春がフォローする。後藤が強引ということは、部長を決める時に大きな勝因になったものの一つだった。陽太郎は誠実さで見事に部長の座を勝ち取った。
 後藤の話で盛り上がると、部活動の顧問の悪口や文化祭の良かった点や悪かった点などを述べた(悪かった点の方が多く述べたが)。なぜだか悪口を聞いていると自分に言われている気がしていた。それでも陽太郎はこの誰のものでもない三鶴を愛していた。
 時刻は五時くらいだった。外はかなり気温が上がっていた。喜代恵は、海のすぐ近くにブルーシートを敷いていた。
 三つの袋にそれぞれ着ているものを入れて、水着になって三人で駆け出した。三鶴と小春はタンキニを着ていた。
 ただその時間が陽太郎の思い出に強く刻まれることは間違いなかった。三人は波をそれぞれの形で受け、水を掛け合ったり、沖の方へ競争したりした。陽太郎と三鶴と小春はまるで遊び方を生まれる前に享受していたかのように遊んでいた。ここに来たら陽太郎も何も考えずに満面の笑みを浮かべていた。夕暮れが踊っている三人をさらに肌色に染め、そんな時に陽太郎は彼女たちを美しいと思うのだった。真っ白な光ではなく、オレンジがかった光が好きだった。水の中の海砂はとても人の足と相性がよく、何の隔てもなく瞬時に溶け合う。でも、彼は思うのだった。美しかったのは小春でも、三鶴でもない。遊びという名の本能。すなわち、人間であるという喜びをほんの瞬間でも味わい共有したことによるものだということを。
 そのことが印象的過ぎて、夕暮れを見ても特に何も感じなかった。三人の残像はあの時から死ぬまで、あの海に残っていると陽太郎は考えることがある。

 水着を着たまま喜代恵を含めた四人で家に帰った。夕方から夜にかけて、陽太郎は勉強をすることにした。海に行ってから、自分の心の悩みが小さく見えたような気がしたのだ。力を抜き、楽な気持ちで自分の心と対峙することが出来た。
 晩御飯を済ませて風呂を順に済ませ、布団に横になっていた。すると、三鶴と小春が上がってきてテニス部の恋について話しましょう、と彼を誘った。彼は勉強したい気持ちもあったが、三鶴に嫌われたくなかった。
「テニス部で付き合っている人はいるんですか?」
…などと色々と質問攻めにあった。彼はその都度答えた。後藤が誰と誰が付き合っている、などと陽太郎に話すことが多かった。彼はそれをもとにして色んな質問を彼女たちにすることが出来た。彼はこんな時がずっと続けば、三鶴を手にすることができる、と半分得意気だった。

 朝起きたのは十時くらいだった。欠伸混じりに起きると、一階がどうやら騒々しかった。彼はベランダの風を吸い込んで、ゆっくりと一階へ降りていった。
 襖が開いていて、そこに丸テーブルで三鶴と小春と話をしている男がいた。これが熊谷らしいぞ、と直感した。
 ただ、心の中によそよそしさが出たのは事実だった。熊谷はずっと前から彼女たちを知っていて、経験値が陽太郎とは違うのだということを悟らねばならなかった。それは目の前に繰り広げられている楽しい会話から明らかだった。
 おはよう、と陽太郎に言ってくれた。
「こちらが熊谷さん?」
彼は少し震えた声で言うと、
「そうです、熊谷です。よろしく」
と熊谷から挨拶してきた。
 熊谷の顔は陽太郎よりも優れていると言ってよかった。陽太郎もどっちを選べと言われたら迷わず熊谷の顔を選ぶだろうなと思った。彼は真っ黒のズボンに、派手な黒いTシャツという出で立ちだった。
 陽太郎は昼飯の間、彼ら三人の話を質問もなくずっと聞いているだけだった。彼がこの時、卑屈になったことは陽太郎の社会性の無さが影響している。何故か許せなくなっていた。俳優としての彼の作品を、小春と三鶴は一緒に鑑賞したことがあるらしく、その話で大いに盛り上がっていた。当然、そんなことを知らない彼は一人で携帯をいじっていた。特に何もすることがないのにいじっている彼は惨めな気持ちだっただろう。
 しかし、話題がテニスの方にずれてくると、陽太郎にも話が回ってきた。ただ昨日よりは盛り上がらなかった。責任は陽太郎にあった。陽太郎が口を開く時は非常に淡白だった。聞かれた質問だけにしか答えず、話題を広げることもなかった。
 陽太郎は熊谷と共に二階に上がって、寝床まで案内した。熊谷は机の上にある勉強道具を眺めて、「これって貴方のですか?」と訪ねてきた。陽太郎は頷いた。
「凄く難しい内容をやっていますね、数Ⅲなんて凄く難しそうですね」
陽太郎は「まぁ」と言った。
「だとすると、もう高校三年生ですか?」
熊谷は鋭い目をこちらに向けていた。彼は頷いた。
「もう受験生ですか、へぇ。よく来てくれましたね」
この言葉は、軽蔑にも聞こえたが陽太郎は「はい」と素っ気なく返した。
 熊谷は三鶴たちと同い年だった。この点、陽太郎は不利に感じていた。教育は通信制だった。陽太郎にとってはどんなものか想像しずらいので、質問も何も浮かばなかった。

 午後になって、テニスコートへと向かった。テニスコートは1コートこの四日間予約していたらしい。太陽が燦々と照っていたが、喜代恵が渡してくれた麦茶のボトルのおかげで、返って暑さが麦茶の味わいを深くしてくれていた。
 四人でダブルスを組んで、ラリーを続けたりした。最初は小春と三鶴ペアと、陽太郎と熊谷ペアで回していたが、明らかに男子チームの方が圧倒的だった。熊谷は、足を機敏に動かして、ボールを打ち返すのに最適な位置を見つけるのが上手かった。
 結局、そのペア同士でじゃんけんをして、勝ちチームと負けチームに分かれた。陽太郎は小春と同じチームになった。陽太郎の顔は晴れなかった。
 悲劇が起きたのはそこからだった。いつも俊敏な足があまり動かない、ラケットを振るときに余計な力がかかってしまう、面が上を向いてしまうなどのこれまででは考えられないスランプに陥った。それは、三鶴と熊谷が一緒にいる姿に、半ば嫌気がさしていたからだろうと思う。
 最も顕著だったのが、サーブだった。いつも入るサーブがネットに引っ掛かったり、ボールを叩きつけたりして全く入る気配がない。最初は皆、笑ってくれてフォローしていたが、段々と皆フォローするのにも疲れてきた。熊谷に関しては、片方の腕を曲げて、その手を腰に置いていた。その姿勢がとても陽太郎に不満を抱いていそうだったので、サーブは調子が悪い、と言って小春にサーブをやらせることにした。
  熊谷は陽太郎がフォアハンド側が得意なのを見越したのか、バック側に強く打ち込んできた。陽太郎はその度に苛つきと、自分の情けなさ、部長がこんなんでいいのかというような恥ずかしさを感じていた。
  帰り道の途中、テニスが楽しかったと女子二人が盛り上がっているなかで、陽太郎はもうテニスはやるまいと思っていた。熊谷がそんなものか、と苦笑いしていたのを陽太郎は忘れるはずもなかった。
 二日目にして、陽太郎は家に帰りたい気持ちに襲われた。熊谷と話すこともなく、女子二人とも話すこともなく、ただ自分の中に閉じ籠りたかった。
 二日目の夜に、三鶴と小春が二階に上がってきていたが、またつまらない恋話かと思った。陽太郎は寝た振りをすることに決めた。
「あら、陽太郎さん寝てるの?」
三鶴は熊谷に聞くと、「あぁ、そっとしといてあげようよ」と言った。
「今日の陽太郎さん。いつもと違う感じがしたよね」
三鶴が小春に聞くと、「そう言えば、静かだったね」と小声で話していた。陽太郎は彼らに背を向けて寝ることにした。この“そう言えば”という言葉に引っ掛かった。彼女たちにとってみれば、陽太郎なんて“そう言えば”という存在でしかないのだ。

 卑屈ということは十分承知していた。それでも彼は強情に恋話に参加することもなく、終わった。これに参加しなかったことが彼の心に逃げるという選択肢を与えた。
 三日目の朝になると、もう既に熊谷も起きていて、一階で話していた。話し合いに参加するのはめんどくさくなって、ベランダから見える由比ヶ浜を見ながら勉強をしていた。
 皮肉なことにその時ほど勉強に集中できたことはなかった。蓋をするような塞いだ勉強だったが、もう今日にでも帰ろうかとしていた。何やかんやのと理由をつけて、自分は今日勉強しようと思った。それに彼らとは違う。陽太郎は受験生だ。熊谷たちと一緒の心理状態になれるはずもなかった。そう言って自分をたしなめていた。
  昨日と同じくらいの時間に階段を降りていって昼御飯を食べた。
「陽太郎さんって朝、遅いのね」
三鶴が言った。少し失礼だなと思って、彼女の顔を睨み付けると、そこには人を憐れむような表情を浮かべた三鶴がいた。
 陽太郎は三鶴と何から話せばいいのか分からなくなっていた。きっと自分の心にある直感が彼女の思いやなんかを読み取ってしまったらしい。
 陽太郎は男子と女子の違いは、減点方式か加点方式の違いであると思っていた。男子は加点方式で、段々と相手を信頼していくが、女子の場合は減点方式となる。陽太郎にとってこの減点方式は違和感しかないものだった。
 一度、減点されたら中々取り返せないことは明らかだった。だから、陽太郎はもう恋とかそんなことよりも勉強に傾倒しようかと考えていた。
  彼らは陽太郎が来る前に、今日の予定について話し合っていたらしい。彼らは今日も由比ヶ浜のビーチに行くと言っていた。陽太郎はあれほど純粋に楽しんでいた自分を何処かで憎みながら、行くかどうか悩んでいた。
 二階に上がって、熊谷と一緒に水着に着替える時になると、陽太郎は熊谷に行かないということを伝えた。
「陽太郎さんも行きましょうよ。中々、由比ヶ浜で泳ぐ機会なんてないですよ」
陽太郎は勉強があるから、と言って跳ね返した。陽太郎の卑屈は、熊谷には彼の性格は元から備わっているものとして見ていた。結局、陽太郎はその日、一日中勉強しようと決めた。
  一人、机に向かっていると、中々集中できなかった。今頃、熊谷は三鶴たちと純粋無垢に楽しんでいるのだろうと考えると、憎悪が腹の中に蓄積されていった。
  彼は誰もいないことをいいことに、家の中を見て回った。縁側の方に荷物があり、その中から三鶴のバッグを探した。
  薄いピンクの2ウェイバッグを仕切りにあさり始めた。いつの間にか鼻息が荒くなっていた。目当ての物は何もなかった。ただ何を持ってきているのか、何が狙いなのかを探り当てたかった。
 なぜ、後藤ではなくどうしようもない俺を誘ったんだ!といったどうしようもない怒りが彼をそうさせていた。勉強に集中できないという怒りも加担していた。
 バッグの小さいポケットからハートマークのシールがついた手紙が出てきた。小さな文字で右下に「陽太郎さんへ」と丸く小さな文字が書かれている。もちろん封は切らなかった。ハートマークの粘着が落ちたらバレる可能性が大いにあった。
 ただこのハートマークだけで、安堵していた自分がいた。もうこれだけで全ての辻褄があった。例え、熊谷と遊んでいても、ただ熊谷は外野から飛び込んできただけであって、本心は陽太郎の元へ傾いているのだ。彼は鯉がいる池に自分の顔を浮かべながら、笑顔を見せた。

 陽太郎は手紙のことで安心していたのか、勉強に本腰が入り始めていた。彼女の想いだけで十分だった。彼女はいつ彼に向かい胸の内を開かしてくれるのかを予想しているだけでも楽しかった。
 でも、もしもこの卑屈な彼の態度が、彼女の計画を変えたらどうなるだろうと考えた。だけど、彼の勉強第一義主義はぶれることはなかった。彼の計画はひとまず三鶴を我が手のうちに封じ込め、その後大学に入り彼女のために精進することだった。
 夕方に三人は水着姿で縁側の向こうに現れた。縁側で勉強していた陽太郎は真顔で彼らを出迎えた。
 明日の朝は、すぐに発つことになっていた。告白してくれるとしたら今日しかないであろうと、陽太郎は考えていた。ただ三鶴は陽太郎の顔見ても何も言わなかった。三人は陽太郎を見て唖然としていた。何のために来ているの?と言いたげな目を向けてきた。
 それでも陽太郎は、自身が勉強もしていないという矛盾にまるで気づかなかった。
「何で、陽太郎さんは来なかったの?」
三鶴は水着を着たままずっと彼の顔を見ながら言った。熊谷と小春は先に玄関へ向かっていた。
 何をすればいいのか分からなかったのが本音である。ただ陽太郎は自分の行いに間違いはないと信じ込んでいた。
「何がそんなに気にくわないんですか?」
三鶴は涙声で言った。陽太郎は、彼のことも理解できないのになぜ手紙を渡そうとしているのかも分からなかった。
「勉強なんていつでも出来るじゃないですか」
陽太郎は思いは、渦巻いているが、それを口に出せなかった。
「たった一日、二日ぐらい勉強しても良かっただろう」
「いや、陽太郎さんは自分のことしか考えていないからそんなことが言えるの」
陽太郎は、三鶴を睨み付けた。縁側でにらみ合っていた。熊谷と小春は玄関の前で並んで彼らを見ていた。陽太郎は、人の目が気になる性格だったので、彼らをなるべく見ないようにして続けた。
「三鶴、俺は受験生なんだよ。大学受験というのは高校受験とはまるで違うんだ」
彼は言っている時に、しまったと思った。まるで高校受験をバカにしたような言い方だった。しかし、三鶴は初めて陽太郎に対して怒りの言葉をぶつけたことに、彼は苛立っていたのでむしろこれぐらい言っといて良かったと思い直した。
「陽太郎さん、貴方はあたしが中学生の時に、勉強方法を教えてもらったり、分からない問題を写真付きで解説してくれたりして、とても優しいって思ったの。頭の良さから来るウィットもとても好きだったのに」
「でも、人を好きになるには嫌な部分も一緒に見つけなければいけないよ。それを愛することが恋だと思うね。簡単に連れ出してどういうつもりだったんだ」
「私はただ貴方と…」
「とにかく、僕は当初の予定どおり明日の朝帰るつもりだから。こっちには勉強があるんだ。今、どんな受験生でもまともならこんなところに来るはずはない」
「最初の方の貴方は楽しんでいましたよ、それなのに何故…」
「途中で考えが変わることくらいあるさ。人は毎日生まれ変わっているという言葉があるように、人は毎日同じとは限らないんだ。それを愛することが君には出来るのか」
三鶴は赤い目を、陽太郎に向けた。口に手を置いていた。
「私の手紙、見たんですか」
陽太郎はニヤリと笑った。
「見て何が悪い」
「人の物でしょ?勝手に見るなんてあり得ない」
彼女は語気を荒げようとすると、涙が溢れそうになった。言葉につまる三鶴を見て、小春が走ってきた。熊谷はずっと陽太郎たちの劇を眺めているつもりだった。
「人の荷物を何で勝手に漁るの?」
小春は、完全に三鶴の肩を持っていた。三鶴は泣き崩れていた。小春が代わりに喋っている感じだった。
「三鶴の言いたいことはね。陽太郎さん、貴方は勉強とかもあって忙しいのは分かりますけど、少し反省するべきところがあるってことなの」
陽太郎は静かに次の言葉を待っていた。
「貴方は少し人として、道徳的にも間違った人です。貴方は思い通りにならないってだけですぐに自分の殻に閉じこもる」
三鶴が呻吟しながら続けた。
「陽太郎さん。間違ってるかも知れませんが聞いて。貴方は熊谷さんが来たときから熊谷さんを排除しようとしていた。私たちと仲良くするのが気にくわないのか、何なのか分からないけど、貴方はそれまでとても幸せだった私たちを一気に不幸にした」
「俺はただ他人に対する態度を仕向けただけだ」
「そこが人間としておかしいのよ。熊谷さんが来てから私たちにも冷たくしてさ」
小春にしっぺ返しをされた。
「君たちこそ、熊谷の方が実際顔がいいからってこんな顔だけの人間に騙されてるじゃないか」
「それは言い掛かりよ」
三鶴が返した。中々崩れない彼女たちに陽太郎は、普段考えていることを言った。
「女は減点方式なんだろ?一つでも嫌なところがあれば、一生軽蔑する気かい?バカにするな。一人の人間を完璧だと思い込んでいるんだよ、君たちは。
 そして、俺よりもイケメンの男が現れたら、その男は簡単には減点はしない、すぐに俺にだけ俺の非を見つけて減点しようとするじゃないか」
「少なくとも今日までは貴方のことを愛していたわ」
「ほら!減点方式じゃないか。そう言うところが気持ち悪いと言っているんだよ。過ごしずらいと言ってるんだよ!」
彼は揚げ足を取るように言った。ただ三鶴は彼の真剣に言い訳する様子に、ひたすら減点していた。

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