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旧聞#7 ウィピルに思う|Essay

知らぬ間に今年のセマナ・サンタは過ぎてしまった。

復活祭の週をスペイン語でこう呼び、僕が知っている中米では市民の短いバカンスともなっている。キリストはともかく、人々はこれで毎日の労働から息をふきかえす。僕も仕事と住んでいた町を離れてグァテマラを訪ね、先住民たちが再現するキリストの受難劇を見学させてもらった。

本来はチョル系言語を話すこの先住民はマヤ人の末裔であるが、見た目でその伝統を残すものといったら女性が着るウィピルくらいしかない。けれどこの四角い民族衣装は、変幻自在の柄で見る者を圧倒する。そこにはグァテマラの色彩感覚のすべてが結晶している。

聖金曜日、町では主の死を悼むパレードが行われる。人々は松葉や色づけされた木くずで目抜き通りを装飾する。現れた動物や宗教的な絵柄が、路上を美術館の壁面に変える。その上をキリストや聖人の像を担いだ聖職者たちが通るわけだが、あとに従う100名をこえる数の先住民女性が路上にあったあでやかさを根こそぎ奪ってしまう。それくらいウィピルは多彩で目にまばゆい。その様子は「色彩の洪水」という形容がピッタリだ。

ウィピルは村ごと、民族集団ごとに色も模様も違う・・・はずだったが、最近はそれも危ない。やっぱり近代化のせいだ。友だちの下宿先で働く若い家政婦さんは、昼間はウィピルを着てかいがいしく掃除なんかしてるけど、夜はパジャマ代わりの普通のシャツに着替えてしまう。都市部で働くこの町出身の年頃の女の子にはもうウィピルは似合わない。

おばさんたちでも安い工場製の生地を巻きスカートにするから、昔みたいなウィピルとの色の連続が楽しめなくなった。母と娘の間でウィピル織りの技術のみならず、生活様式や母性までもが伝達されない、そんな時代が近づいている。それを思うと、落ち葉が雪に変わる季節を歩いているような、なんともやるせない気分が僕につきまとう。

今年のセマナ・サンタでは、黄ばんだ風があてどなくさまよっているあの山あいの町の目抜き通りを、いったいどれだけのウィピルが埋めていたのだろう。

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