津堅島の年中行事 11月|Field-note
沖縄県の現うるま市津堅島で、1990〜1991年当時あるいはそれ以前に行なわれていた年間の行事や祭祀等の採集記録です。不定期に掲載します。
タキマーイ(旧暦11月12日?→消滅)
イビ御嶽にて神人たちが御嶽の掃除をし、薪を持ち帰る。
アミルシ(旧暦11月13日→消滅)
この日の未明頃に、津堅バラのアダンナ(安谷屋)、神谷バラのアカッチュ(赤人)の両ニッチュは、近くの浜で海水を汲んでこなければならない。隠密の行動を要求されるため、もし帰る途中で人と出会うようなことになれば、その場で水を捨て新たに汲みなおすという。ヌルのロに入るものなので穢れのない水が必要だとされる。
午後になると、ヌルとニーガンは安谷屋家を訪問する。まな板、包丁、漁網、海水、酒、7種の穀物をお膳にのせて火の神に供え、両ヌル(津堅ヌルが右側)を先頭に豊作・豊漁の祈願をする。このときヌルは、海水を人差し指ですくい口につける動作を7回繰り返す。
休憩後、迎えに来たアカッチュニッチュとともに赤人家を訪れ、同様の祈願を行なう。
暗くなり始める頃、女性神役たちはアカッチュニッチュと連れだって、前の浜に向かう(同時にアダンナニッチュは単独でアギ浜へ行く)。ここではアカッチュニッチュが海に向かってフーの柱を肩で支え、その後方でヌルたちが豊作・豊漁の祝詞を唱える。
終了すると、女性神役たちはその足でアギ浜へ急ぎ、アダンナニッチュとともに同様の儀礼を催行する。これを終えると、彼女らはミシイトゲーナを唱和しながら帰路につき、赤人家にて休憩した後、家路につく。
また、この日のうちに両ニッチュはマータンコーマーにて明日の料理の下準備を済ませておく。なお、この日数名の青年が各家庭から麦・粟を徴収し、ウケーメーを炊いて神人に献上する。
(フィールドノートにはアミルシのあとに?が付けられていたので、正しい祭祀名の確認漏れかもしれない。)
マータンコー(旧暦11月14日→消滅)
津堅島だけにみられる特殊な催事だが、1990年時点ではすでに絶えていた。一日騒ぎ続ける楽しい祭りだったと懐かしむ人は多い。
人々は前日までに旗や棒、踊りの練習をしてこの日を迎える。
赤・黄・白のマータンコーバタを掲げた両ウクラサトヌシの家では、親族の手を借りながら朝から料理などの準備を整えている。当のサトヌシは盛装をして赤い帽子を被り、一番座の上座に控えている。村人も集まり、祝宴が始まる。
午後になると、棒持ち役や旗振り役を先頭に、両バラの人々がイーミーグマの前のアシビナーに集合する。棒勝負、旗振り勝負が行なわれた後、仮面を被ったり顔に鍋墨を塗ったりした人々が乱舞する。
ひとしきり騒いだ後は、今度はそれぞれの浜にあるマータンコーマーに7個の酒甕を担いで行き、そこで再び宴を開く。またある人々はサトヌシの家に戻り、宴会を続ける。そうして一晩中騒ぎ明かす。
この催事の起源について、為朝伝説に基づいた次のような伝承が残されている。
昔、この時期になると、アギ浜にマジムン(魔物)がやって来ては女性をさらって食べた。魔物から逃れるため、女性は仮面を被ったり顔をわざと汚したりしたという。思案した村人は、魔物を退治すべく7つの酒甕を浜に用意した。これを飲んだ魔物はしこたま酔ってしまい、その隙に村人は首を切り落とした(七首のマジムンという説もある)。すると傷口から剣がでてきた。その剣は後年この島を訪れた源為朝が持ち去ったという。
ミシジ(旧暦11月17日→消滅)
この1年間で女児が出生した家では、米を炊いて仏壇に供え、おにぎりにして親類や隣近所に配る。
一方、男児が出生した家では、この日のことをウフアミルシという。旧暦10月13日のアミルシグヮーと対をなすと思われる。