沖識名は、1904年(明治37年)7月6日に生まれ、1983年(昭和58年)12月15日に亡くなった元プロレスラーにして元レフェリー。力道山の日本プロレスに所属していた。
【出典】http://www.showapuroresu.com/bio_j/etc/oki_shikina.htm プロレスラーとしての彼はパッとした経歴があるわけではない。シングルマッチのほか、力道山、遠藤幸吉、東富士欽壹らとタッグを組んで外国人レスラーと対峙することが何回かあった程度だ。
ただしこれは1955年頃の、彼がアラフィフだったころに限定される。戦前はアメリカで強豪レスラーとして広く知られていた。世界タイトルマッチに何度も挑戦している。「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(Catch As Catch Can)と柔術との対決」と紙面をにぎわせるほど、日本を背負った一流のレスラーだったのだ。1937年、NWAハワイJr.ヘビー級王者のタイトル歴がある。
以下では、『与那原町史 資料編1 移民』五章 体験記録「ハワイ移民―沖識名の場合―」をなぞりながら、沖識名の知られざる側面に光を当てる。
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沖識名は大見武で生まれた。屋号シチナグヮー。現在、大見武にはその屋敷跡はとどめていない。<中略> 沖識名の本名は識名盛雄である。生活苦から五歳の時、母親と共に父親のもとにハワイのマウイ島プネネーに渡ったという。
【出典】『与那原町史 資料編1 移民』p319 沖識名は与那原町大見武の出身のハワイ移民だった。弟も一緒にハワイに移り住んだようである。
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沖識名は沖縄にプロレス興行があるたびに与那原を訪ねてきた。<中略> 私が与那原小学校時代、沖識名が豊登、吉村(道明)、大木金太郎らを連れてきた。<中略> 巨人のプロレスラーを十人余も連れてくるから目立つ。それに当時は凄いプロレス人気であったから、予告なしに来ても、その一帯は見物者でごったがえしたものである。<中略> プロレス興行の合間には、レスラーたちと嘉手納基地内でゴルフを楽しんだりしていた。
【出典】『与那原町史 資料編1 移民』p319-320 ウマリジマ(故郷)のことを忘れずに与那原を訪れ、門中のシンカ(仲間)たちと酒を酌み交わしていたようだ。文中には、仲嶺商店の二階でくつろいでいた様子が記述されている。
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えびす通りに大城梅干店がある。そこのお爺さんは大のプロレス好きであった。<中略> レフリーは沖識名。日本人プロレスラーが外人プロレスラーを押さえ込んだ時、ワン、ツーまではパッパッとマットを叩いて、スリーを中途で止めるということがしばしばあった。プロレスのあった翌日は必ずというほどこのお爺さんが私の家に現れた。「イェー、サンルー(父・万助の沖縄名で「三良」)、沖識名ンカイ、電話イリヤーニ、ナーフェーヘークカウントトゥレーンリ、イレー」(おい三良、沖識名に電話して、もう少し早くカウントを取りなさいと言いなさい)と。<中略> ある時、沖識名が与那原に来たとき、父が「イェー、ナーフィンヘーク」(もっと早く)と言ったら、沖識名が「いろいろあってね」といったので、そういうことか(演出上のことか)と知った。
【出典】『与那原町史 資料編1 移民』p320 レフェリーとしての沖識名は、よく殴られシャツを破られていた。 この言葉が意味するところは、プロレスらしいエンターテイメントを重んじるレフェリーだったということだ。悪玉レスラーの反則に見て見ぬフリをして観客のフラストレーションを高め、善玉レスラーのフィニッシュホールドを誘導して観客に快哉を叫ばせるのが名レフェリーの役割である。
この文章の「演出」という言葉に関して次の逸話がある。
1965年(昭和40年)に拳銃不法所持で逮捕されたことがある。その際、留置場で「プロレスは八百長だろう」と絡んできた若いチンピラに対して「俺が命を賭け、身体を張ってきたプロレスを八百長呼ばわりするお前は断乎として許せない」と激怒した沖識名は取っ組み合い、たちまち倒してしまったという。当時の沖識名の年齢は61歳だった。
【出典】https://ja.wikipedia.org/wiki/沖識名 ◆◆◆◆
三宅から柔道とレスリングを一年ほど習い、プロレスの道に入った。排日機運もある時代だった。<中略> アメリカ各地を約十年転戦したという。戦争中は身の危険を避けるためプロレスを辞めてアラバマで鶏の雌雄鑑別の仕事をしていたという。戦後、プロレスを再開した。
【出典】『与那原町史 資料編1 移民』p321 プロレスに入る前の格闘技経験として、沖縄空手が土台にあったことは以前の記事に書いた。他にも、ハワイ時代には岡崎清四郎や浜井仁之助から柔道を学んだ。沖縄角力はもともと強く、江戸桜という力士から相撲の手ほどきを受けたこともある。
文中の三宅とは、『町史』では三宅太郎と書かれ、ウィキでは三宅多留次と書かれるが、当時の日系レスラーのタロー・三宅であるらしい。またプロレスを辞めた経緯について、他のサイト(GRAPPLE KING)では、日米開戦により日系人収容所に収監されたという記載がある(真偽は不明)。
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彼が引退したあと、時々ハワイにやってくるプロレスラーがいる。ブッチャーである。沖識名はかつてブッチャーに空手も仕込んだ。<中略> 沖識名の好きな葉巻をその都度、お土産に持ってきたという。沖識名によれば、義理人情を持った唯一の外人であるという。
【出典】『与那原町史 資料編1 移民』p321 力道山に空手チョップを授けたのは沖識名であり、彼が学んだ剛柔流の手刀がルーツである(と思う)。 アブドーラ・ザ・ブッチャーも同様に彼から貫手を学んで地獄突きに昇華させたのだとしたら、沖識名はプロレス界にとって余人をもって代えがたき名伯楽だったといえよう。
PS. 下の記事でもハワイに移住した沖縄空手家のことを書いています。参考までどうぞ。