メッシの体幹の強さは柔術のおかげだった!?|Critique
ひさしぶりにアルゼンチン空手に通じる書物(註1)を読んだので、考えたことをメモしておきたい。以前に書いたKARATE兄弟のうち、弟の亀永がロサリオ市の警察署で空手を教えていたことの背景として理解できそうだから。KARATE兄弟の記事はこちらから👇
登場するのは福岡庄太郎という人物。1878年、佐賀県唐津市生まれ。講談師・神田伯山の遠い祖先であるらしい。
1902年に妻子を残したまま渡米。柔術を武器に異種格闘技戦に身を投じる。
1903年、今度は渡欧。同じく日本から来た柔術家や剣術家と徒党を組み、英・仏・独あたりで日本武術の巡業を行ったようだ。
1905年、再び米国へ向かう。スポーツ新聞に特集されたことで、柔術への関心が格段に高まっていた。が、メジャーシーンの異種格闘技戦への出場はなかった。
1906年、アルゼンチンに渡る。ブエノスアイレスをほぼ素通りして、日系移民がいなかったロサリオ市へ向かう(註2)。この年の10月15日に、フランク・ブラウンという巨漢レスラーと試合をし勝利する。これが縁となって、ロサリオ市警察に「准尉」として採用され、柔術を指導するようになる。
なかなかにあわただしい人生だが、福岡のアルゼンチン入りは非常に時宜を得ていた。
まず大前提として、以前の記事でも書いたように、福岡の渡亜の前年に日本が勝利した日露戦争のインパクトが大きかった。
さらなる時宜のひとつめは、福岡が到着してまもなく、ロサリオ市の地元紙が柔術の特集を組んだこと。
記事ではヨーロッパ事情を引き合いに、警察官に必要な体術スキルとして柔術の重要性が強調された。当時の南米は好景気で潤っていたが、世界の中心のひとつで、自国民のルーツでもあるヨーロッパへの憧憬は根強いものがあった。そのイギリスやフランスが柔術を礼賛しているのだから、こいつは本物に違いないぞと。そこにはオクシデンタリズム的な視線もあるのだが(註3)、ひとまず柔術に関心が高まっていた時期だった。
さらなる時宜のふたつめは、同時代にホアン・B・アロスピデガライという人物がいたこと。
ロサリオ市民にスポーツと体操を広めることに生涯を捧げた彼は、1907年に体操と剣術のクラブを立ち上げた。福岡はこのクラブに柔術クラスを開講している。アロスピデガライが柔術に期待したのは「護身術」としての役割である。貧富の差が激しく、治安がいいとはいえないアルゼンチンの現状を憂いて、警察官や警備員が暴漢と対峙する訓練となり、女性や子どもでも学べて実践できる護身術を欲していたのだった。
福岡は1916年に隣国のパラグアイへと出奔する。病気治療のためだったが、この地に永住することになる。
護身術としての柔術を広める傍ら、ドイツ系の女性と結婚し、5人の子宝に恵まれる。実業家としても成功し、さらには日本からの移住者を受け入れる私設領事の責務を負うようになる。いわばコンデ・コマことブラジルはベレンの前田光世と似たような後半生を送るのである(註4)。パラグアイからグレイシー柔術が生まれていてもおかしくなかった、と偏った見方もできる。
沖縄出身の空手家・安里亀永がロサリオ市警察に職を得たのは、福岡庄太郎という先達がいて、日本の武道を介してすこぶるいい印象をこの地域に与えていたからだと、私は評する。思い過ごしでなく、思い過ごしでなくもない淡い自信がある。
追記
福岡が米国で異種格闘技戦を行っていた第二期は、〈名護の幸次〉が日本からやってきた柔道家の鼻っ柱を折ってやった時期と一致する。活動範囲が異なるので違うだろうとは思うが、こんな形で二人が邂逅していたらと、しばらく夢想してもいいですか?
註
『海を渡った柔術と柔道 日本武道のダイナミズム』(坂上康博編著、2010年、青弓社)の第6章「柔術、南米にいたる!――ある柔術家の生涯をたどって」(薮耕太郎)より。
ロサリオ市には著名なフットボールクラブが二つある。ひとつはロサリオ・セントラルで、もうひとつはニューウェルズ・オールドボーイズである。リオネル・メッシが在籍していたのは後者。本記事タイトルは、メッシの曽祖父母あたりが柔術習っていたとしてもおかしくないよね、的な発想から。
ここでのOccidentalismとは「西洋崇拝」という意味で用いている。本書によると、日露戦争の勝利者である日本を評価するまなざしと、黄禍論という立場で東洋を忌避するまなざしの二重性があったとのことである。
増田俊也の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』によると、1902年のNY時代に福岡と前田はつるんで巡業していたそうだ。