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パスより速いドリブルはない|レキオス|Review

『レキオス』
池上永一著、文藝春秋、2000年

レビュー日はペップが現役の頃/小説★★★★☆

キミはFCバルセロナという欧州フットボールクラブを知っているか。そして司令塔グアルディオラのプレイを見たことがあるか。中盤の底から長短織り交ぜたパスの連続でゲームを組み立て、クライフの魔法を世紀末に延命させる。彼を基点としたポールの軌跡は縦横無尽にピッチを駆けめぐり、無慈悲な90分間は相手選手の肺活量を徐々に蝕んでいく。

『レキオス』で紡がれる錯綜した物語の旋律は、グアルディオラが操るボールゲーム―—サッカーと呼ばないで🥺——に似ていると思う。神出鬼没のボールが舞う緑のフィールドに時間軸を滑り込ませて多次元空間を透かしてみれば、そこは池上永一の球技場。彼だけのカンプノウだ。そこでは民俗と歴史事象をイメージの断片とし、屈託をなくした筆先の冒険が所狭しと繰り広げられる。

しかしいくらなんでもと苦笑してしまうほどの羽目の外し方。メタフィクションの語り口で琉球の歴史・沖縄の現在がやたらめったら辻斬りにされる。琉球王朝末期の宣教師ベッテルハイムや象の頭を持つ神像が闊歩し、露出狂の人類学者がCIAと対峙するこの空間はどこ? そして今は過去?それとも未来?と自問してしまうこと請け合いである。

口角沫を飛ばす作品に言いくるめられて、べき乗されたチャンプラリズムを現実の世界かと見まごう正直者も一人や二人いるに違いない。対象へ没入することを拒むかのように場面はスイッチし、疾走する物語はときどき登場人物をも置き去りにしてしまう。多弁を突き動かすのは偏執か、それとも分裂か。

それでも池上のストーリーテリング能力はすごいと思う。題材を一度も解体することなく、むせ返るほど厚く厚く上塗りしていく迷彩色の文字の絵画よ。こんなにも主題が掴みにくい502頁のスペクタクル巨編を文藝春秋から出してしまうしたたかさもすごい。恐れ入る。

文筆家としての池上の志を何か高尚なものに求めるならば、豊穣なるインスピレーションのまま、時間の浮遊物をごった煮するこの作品の喧噪を、習作だからと位置づけて納得かますこともできるだろう。

だけど、ボクはそうは思わない。これでいいのだ。このままでいいのだ。自由奔放なエンターテイメントの魂がかろうじて物語の鋳型に納められるこの危うい表現形式を、ボクらは勇気をもって「珊瑚礁的クリエイティヴィティズム」と呼ぼう。

ああ、やっぱりグアルディオラに似ている。ときどきボールを回すことに酔いすぎて、ゴールを奪うことを忘れるところなんてそっくりだ。『レキオス』はゴールが入らないけれど、抜群に面白くて見る者を釘づけにするFCバルセロナの負け試合みたいな気がする。イエーイ!

閑話休題。この作品の隠れキャラ・米軍基地には池上とオキナワ原理主義の関係が透けてみえそうだ。池上はアメラジアンの宙ぶらりんの心性に基地の✕✕✕✕を語らせるが、それは確信犯による政治的マニフェストではない。傷つき傷つけられることを怖れ、ついつい内向する呟き、妄想、自戒、弁明のたぐい。あるいはそこはかとない傍観の横流しとでも言おうか。

だがしかーし! 開き直ってしまえば、その揺らぎ具合は紛れもなくアナタが胸一杯に吸い込んでいる同時代のフラクタルな空気なのである。流れに棹さすわけではない。さりとて流れるがまま朽ち果てるわけでもない。我、流れを映す鏡としてあり続けようぞ。そんな使命感と諦念が入り交じった日和見な言句に、この作品の作者と読者の精神が代弁されるのではないだろうか。

文壇の先達たちが手ぐすね引いて待ちかまえていそうな沖縄戦の話題も、この作品ではほんのチョイ役でしかない。無理して虎穴に入らないところが1970年生まれの作者らしい。飄々としていてよいではないかと思う。

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