ブラジルにいる津堅島の人、聞こえますか~?|Report
イーリャ・グランデ(グランデ島)に津堅島出身の移民の子弟が結構住んでいて、第二の津堅島といわれているらしい(自称)。きっと移民1世も想像していなかった未来だと思うよ。
イーリャ・グランデ(Ilha Grande 大きな島)は、ブラジルのリオデジャネイロ州沿岸部、アングラ・ドス・レイス市に位置し、約193平方㌔の広さを持つ島である(石垣島よりやや小さい)。豊かな自然と透明度の高い海が魅力で、島内には約100のビーチが点在する。自然保護地域で、島の約87%が保護エリアに指定されている。かつてポジリャウス刑務所があった場所でもあり、歴史的な遺構も残っている。
島に最初に定着したのは、津堅島の仲真次姓の人物。確かに仲真次門中の調査をしていたときに、ブラジルに行った家族が複数いたことは聞いたことがある。いろんな情報をかき集めると、どうやら次のような経緯があったらしい。
なぜダシコだったのか
ダシコは懐かしい日本食の料理に使用するため、サンパウロに住む日系人に需要があった。
仲真次牛助がこの島のバナナウ海岸に到着したとき、島民たちは農業を営み、ときどきカヌーや沿岸から釣りをする程度で、水産資源は無尽蔵に思われた。
サントス近くにイーリャ・ベラがあり、そこで糸満出身の大城亀小が漁業とダシコ製造を行っていたという前史がある。
塩漬け工場の栄枯盛衰
当時のバルガス政権は、外国人に海岸付近の土地購入を許していなかったが、牛助の行うイワシ漁の重要性に鑑み、特別に1.2万平方㍍の土地購入が認められたため、牛助は「ナカマシ・フィーリョス」という工場を建て、サンパウロ州の日系人向けに瓶詰や缶詰を出荷した。
故郷の津堅島からも数人を呼び寄せ、多いときは日系・現地人合わせて30人の従業員がいたという。
1918年渡航の渡名喜朗義ら、ブラジル国内の津堅島出身者も続々この島に集まった。往時は島全体で約20の塩漬け工場があった。
仲真次家の工場は1987年に閉鎖したが、漁獲量の減少に加えて、政府の新たな環境法制定の影響があったとされる。
牛助とその家族
「沖縄県移民渡航記録データベース」によると、牛助は1899年生まれで、17歳の1917年にブラジルに渡航。一緒に行ったのは姉のカメ(1881年出生、どうやら記載ミスで兄の蒲である可能性が高い)と、兄の牛(1884年出生)。牛助は81歳で他界。
妻のシゲは1928年の呼寄せ移民である。旧姓は波田真(波田間とも書く)。同じく津堅島の由緒ある家系である。
日系移民の間ではブラジルの名前を採用するのが一般的だったため、牛助はジョアン・ナカマシ、妻はマリア・ナカマシと名乗った。シゲは結婚当初は、サントスで野菜と魚の行商をして家計を支えた。
夫婦にはたぶん4人の息子と1人の娘がいて、協力して工場経営にあたった。うち長男イワオ(次男ヒロシ説もある)の息子のキヨシの代で工場を閉鎖し、ポウザーダをはじめた。
キヨシのブラジル名がプレトである。キヨシの妻はノリコという。ロベルタ、ディエゴ、ラファエラの3人の子どもがいる。
ホテル経営
島の北側のバナナウ海岸には、県系を中心に6~11軒の日系の宿泊施設がある(たぶん夏季のみ営業も含めて)。
現地名ではポウザーダ/Pousadaといい、本来は伝統的な建築技術が生かされたホテルのことである。入り江のそれぞれがポウザーダを中心とした小さな集落を形成している。
バナナウ海岸には観光客を迎え入れるように鳥居が建てられており、その背後にあるのが「ポウザーダ・ド・プレト」である。美しい中庭や写真パネルに日本文化の痕跡をとどめる居心地のよい環境で、 114名のゲストを収容することができる。
波田真の血筋
波田真家のブラジル渡航者は、シゲを除くと、1918年の樽・マサヲの夫婦とその子・實(実)の3人である。
このうち息子の實は1903年生まれで、牛助と近く、おそらくこの人物が牛助に誘われて渡島したものと思われる。
實の長男・実義は7男3女、次男・実明も5男5女の子宝に恵まれた。実明はプライア・ド・ベルメーリャにポウザーダを構え、子孫が経営を引き継いでいる。
プライア・ド・マタリスには波田真アマンダが経営に関わる「ポウザーダ・ノーチラス」がある。彼女はプレトの姪だと書かれてある。
(以上、敬称略)