日本中世の職能民④
皆様、こんばんは!
クリスマスいかがお過ごしだったでしょうか?
私は、連日の疲れでnote2個更新した後、家で爆睡していました。
本当に心身ともに体力なさすぎて、本人びっくりしております。
さて、そのような話ではなく本日の内容に入りましょう。
今回は少し長めです。それほど、網野善彦先生の『日本中世の百姓と職能民』という本で、各職についての紹介は約20年以上前に、詳細不明な点も多いながらどのような立場だったのかをわかっている範囲で明確に示されていた証左だと考えます。
もちろん、そこから新たにわかったことや反論等も最新研究では出ていることと考えますが、残り2回の職能民は網野善彦先生の本からまとめる形で今まで通り進めます。
2024年になったら、平凡社ライブラリーの網野善彦先生の本か、そこから更に追加され最近発刊されている岩波文庫版か、少し悩んでいます。
その前に既にストックしている内容も更新しつつ、どちらを紹介するか決め、他の中世芸能に関する本やなぞなぞの本、室町時代全体の最新研究の本、日本中世の貨幣経済の本、などを紹介後はちゃんと本筋である大阪市東部の歴史、摂津国の歴史なんかに戻る予定です!
ちゃんと忘れてませんよー!
神人・供御人
北陸の日吉神人
日吉社大津神人は「散位」の有位者が多く、その中の1人が近江国における「国内名士」であった。さらに大津神人の借上としての活動の範囲、貸付対象が上は公卿から諸国受領、中央官司の官人、下は田堵から「物売四条女」にいたる広域的な展開をしていた。神人として組織を整えてくる過程で左右に分かれ、長者という地位の者に統轄されるようになるのは、恐らく11世紀後半「唐崎御供」を大津浜の人々が勤仕したのは、さらに古く遡るものと思われ、粟津橋本供御人とも深い関わりをもっていた。また、古代の近江国の贄人にまで遡る海民的な特質をもつ神人
北陸道諸国の大津神人 越後国に大津神人の「在国神人」が三十余人いたこと、「北陸道神人」とよばれる大津神人の組織があったこと、などが建仁二年(1202)六月日の訴訟からわかる。また、大津神人の在国神人は越後各地の津・泊に散在し、廻船に従事していたとみてよい。他に越中・能登・佐渡・加賀・越前にも日吉神人が活動していたと予想される。大津神人の活動は、京都を中心として広範囲にわたっており、摂津にも称する人のいたことが確認できる。
北陸道神人の特質 神人となったのは、能登の神人が「神主」といわれ、若狭の浦刀禰クラスの人が神人となり、越前国日吉神人が大番役を賦課されたことから平民上層―名主クラスから侍クラスの人々であった。神の権威の下に、神人たちは保証された職能上の特権―大津神人の場合、廻船人としての自由通行権、大津神人の北陸道における活動は、南北朝期以降、いまのところ管見に入っていない。
多武峰の墓守
墓守の設置―天皇家の陵だけでなく、后妃、その外戚に当たる藤原氏の人々の墓に、それらを守衛する墓戸、守戸が設定されていた。『多武峰略記』巻下、第八徭丁の項には、藤原鎌足の墓である多武峰の墓守徭丁は貞観七年(865)の官宣旨で定数18人と定められたが、同十年正月十六日に大和守となった藤原本雄がこれを9人に減定したとあり、『延喜式』にみえない墓守徭丁が置かれていた、とされている。その口代として、10世紀半ばにいたって、墓守徭丁とそれを支える田畠が国守によって確定されたようだ。11、12世紀、陵墓を守衛する墓守は、寮領、寺領となった田畠によって、その資粮を支えられる。いわば中世的な荘園公領制下の墓守の形態をとるようになっていった。
墓守の増加とその活動 多武峰墓守の数は11世紀後半、藤原頼通の時代に、「東西諸郡御墓守員数百八十人」、さらに近衛基通が摂政であった12世紀末には、「御墓守七百余人」に激増し、政治問題になった。多武峰と興福寺が墓守に対する凌轢が直接の契機となった。これ以外にも興福寺、主水司とも訴訟をおこしており、摂政九条兼実のときに多武峰の墓守の定数を三百六十人と定めた長者宣が下っている。弘安二年(1279)に入ると、多武峰墓守が各方面とさまざまな衝突をおこしている。一つは、山田寺との争いで、墓守の一人とみられる大和男が、山田寺の関係者宗覚に殺害され、殺害された地に墓守たちが死骸を埋め、神木を立てたのに対し、宗覚を処罰し、寺内を追却したので、「居飼」を申し下し、神木を抜くべしと主張して、死骸を掘り起こし、神木の抜却を強行した。当然、墓守たちは激度したものと思われ、多武峰衆徒たちに抗議、義務を拒否。ただ、神木を抜いたのが摂関家の居飼であった点も見遁し難い。これは居飼が摂関家にとって、いわば「神人」と同様の役割を果たしていたことを物語る。八月に入ると磯野村荘人が多武峰墓守の権威を募り、平田荘に乱入し、荘官・名主等から訴えられている。しかし、逆に平田荘内疋田郷執行政行を摂関家に訴え、加賀に流させている。これ以降も興福寺と衝突などしている。
墓守の特質―11世紀後半、急増して以後の墓守は、多武峰の境内、門前郷とでもいうべき「多武峰坂下四郷」―細川郷、治道郷、椋橋郷、高家郷を中心に磯野郷(村)、檜前(高市郡)、興田郷(十市郷)、豊国荘(北葛城郡)等に広く分散していた。特権を保証された墓守は、建久7年(1196)の事件に姿を見せる紀助親のような「長」に率いられ、「山陵巡検守護」などといわれた墓山の巡検役に従うことを義務づけられた。墓守としてその名を知られる人々は、当面、俗体の人で、法体、僧形の人はみられない。すべてが俗体ではなかったかもしれないが、主体と見てもいいと思われる。墓守が、「聖地」墓山を守衛・巡検する義務―神仏に仕える義務をもつとともに、職能民としての特質をもっていたと考えられる。多武峰の「墓山」「廟」は「聖地」そのものであり、それを守衛、巡検する「聖別」された集団であった。
馬借と車借
院・摂関家の厩は、別当を頂点に、案主、舎人、居飼さらに牛飼、車副などの職員によって構成されていた。院・摂関家の御厩舎人は、寺社の神人・公人とも比べることのできる執達吏、刑吏としての役割を果たすとともに、その職能を通じて富裕になりうる存在だったのであるが、その組織の実態は必ずしも鮮明でない。居飼については、舎人以上に実像をとらえるのが難しいが、左方、右方に分かれていたとみえる。
牛飼と車借、舎人・居飼と馬借 御厩舎人、牛飼が職掌、小寺主や政所・小舎人所、さらに鍛治、番匠と同じく「重役」を負う「職人」として扱われていた。牛飼の車、厩舎人の馬を負担する在家がいた。14世紀以降、「御牧住人」ともいわれ、天皇家・院・摂関家等の厩に属した居飼を含む厩寄人が、一方で関所料及び縄・筵・合物などの商品の交易に関して、駄別課役を徴収するとともに、他方で京の七口などの関所料や諸方課役を免除され、さきに商品や炭・薪などの商売、交易に携わり、さらに商売課役の賦課を馬借の活動そのものにまで及ぼそうとしていた。
馬借・車借の社会的地位 中世後期の馬借の社会的地位については、土一揆と関連して見解が分かれる。一方は「たんに運輸労働者というだけでなく、交通路・宿駅にいる賤民・散所民の系譜をひくもの」であり「中世社会特有のカースト的賎視を受けた」とみる。他方、「馬を所有する問屋・地主クラスのものも」あるので「馬借=商人といわれる程の身分である」と強調し、中世前期までは、決して社会から卑賤視された「賤民・散所民」とは言い難い。14世紀も後半に入ると、少なくとも馬借については、卑賤視される見方を支える事実が現われる。
本日のまとめ
今回、日本中世の職能民の中で1番長い項目となりました。
神人や多武峰墓守、馬借など現在にも人権に関わる問題や文化しか残っていないものなど、説が分かれるような職能が多かったためだ。
話は変わりますが先日、粕汁の本を買ったのですが、粕汁は主に西日本が多いという記述と日本海側にもポツポツと粕汁文化がある。
そのような記述を見るていた時、この日吉社大津神人が廻船していた場所ではないか?と脳内で仮説が生まれました。こちらがその通りだったら面白いなぁ。などと思いつつ、食文化も文化もこのようにどこかで結びつく不思議が研究の魅力であると感じます。
今回はお付き合いありがとうございました。
次回もどうかお付き合いよろしくお願いします。
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