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어머니(オモニ)

重い木の扉を開けると、肉の焼ける匂いが充満している。
久しぶりに友人と韓国料理が食べたいねという話になり、三人の中間地点になる場所で見つけた韓国料理店だった。
店内には私たちの他に三組ほどが食事をしている。
席に通され、とりあえず飲み物を注文しようかと向かいに座った二人にメニューを渡したところで、赤いハイネックを着た年配女性が注文をとりにやってきた。
韓国語で母は어머니(オモニ)という。お店の母という意味でも使われるのか、家庭料理という意味か、韓国料理店の店名にはオモニ食堂と名付けられている店が多くある。
この貫禄のある女性は、言わばこのお店のオモニだろう。

メニューも見ず「グラスビール下さい」と言った私に、「ウーロンハイ」「カルピスサワーで」と友人たちが続く。
するとオモニは返事をしないまま、私のことを怪訝そうに見つめているのである。その様子に私は「あっ、グラスビールはなかったですかね」と慌ててメニューを確認するが、ビールの欄に中ジョッキ、小グラスとあるではないか。訳が分からず困惑していると、オモニは言った。
「グラスビールというものはない。うちにあるのは小グラスよ」と。
これは道行く人を捕まえて「ちょっと奥様聞きました?」と言いたい案件である。
こんなドリンクのオーダーひとつで重箱の隅をつつくようなことってあるのか。小グラスだってグラスだろう。ビールまでの距離はいつだって最短ルートでなければならないのに、韓国ではそんなことないの?簡単には有り付けない代物なの?軽いパニックに陥っていた。
しかし私だって社会人である、簡単にキレてはならない。
「ごめんなさい、それで。小グラスで」と答える。
オモニは返事もせず、奥に消えていった。
残された三人は失笑しながらメニューを見て、そしてドリンクを持って現れたオモニに一言一句違わないように、サムギョプサルやビビンバ、海鮮チヂミにキムチ盛合わせなどを恐々注文するのであった。

注文を聞いたオモニはテーブルのロースターを点火し、韓国料理特有の色々な突き出し、豚バラ肉、サンチュ、キムチ、ハサミと次々テーブルに運んだ。そして私の前に置かれたキムチ盛合わせをを、向かいに並ぶ友人たちが取りやすいように位置をずらした時だ。
「ここに置かないで。ここは私が肉を焼くところだから」
また私がオモニに怒られたのである。
キムチの盛合わせはオモニによって再び私の前に戻された。こんなに早い帰還はキムチだってバツが悪そうだ。

オモニの言い分はきっとこう。
テーブルのこのゾーンは肉を焼く者の聖域である。
モーゼの割った海である。
お前ごときが簡単に足を踏み入れていい場所ではないのだ。
ごめん、ちょっと一回泣いていいかな。

そこから黙々と肉を焼くオモニ。
雑談もなしに肉が焼けるのをただ待つ三人。
ジュウジュウと焼ける豚バラを見つめながら、私はちょっとした懐かしさを感じていた。

私は今までの人生で何度か転職をしてきた。
その度にこのオモニのような、仕事が出来る気の強い女性の下に配属されたことを。
「いい?一回しか言わないからね」
「あなたB型でしょう。私、B型苦手なのよね」(B型ではない)
「あ、辞めるんだったら早めに言ってね」
こういう心ない言葉を投げられてトイレで泣いたことがあったなぁ。
その度に悔しくて、絶対に認められるまではやめてやらないって思ったっけ。

オモニは真剣に肉を見つめている。そして程よく焼けた肉を鉄板の端に並べていく。
火の通りの甘い肉は火力の強い場所へ移動し、この端にに並べた肉をどんどん食べなさいと言う。焼いてやったキムチも一緒に巻けと言う。私たちは言われた通りにサンチュに肉とキムチを巻き、口に運ぶ。恐いよう。美味しいよう。
美味しいのである。
私は食いしん坊なので美味しい食事が好きだ。しかし、食いしん坊なので行列に並ぶくらいなら、そこそこ美味しい食事で構わない。しかし、食いしん坊故、その料理が美味しいかそうでないかは常にわかっているつもり。
このお店のお料理はどれもきちんと美味しい。

通勤中、窓から香る焼き魚の匂いを嗅いだ時、夕方に漂う出汁と生姜焼きの香りにお腹を鳴らした時、私はこのお家に住む家族は幸せだなと思う。
美味しい料理を作る人には、美味しいものを食べさせようという思いやりがあると思うから。
お母さんなのかな、お父さんなのかな、それともおばあちゃんなのかな、このお家にはお料理の上手な人が住んでいるんだと幸せな気持ちに包まれる。
私に心ない言葉を投げかけた上司たちは、諦めずに歩み寄り、向き合い、時に言い返した結果、普通よりも愛情深い人だった。認められたら辞めてやろうと思っていたのに、いざ認められれば裏切るようなことなど出来ない人たちだった。
オモニだってきっとそうに違いない。
そうとなれば私の心はひとつだ。

友人二人も怒られてほしい。

だいたいグラスビールで私が怒られてから、二人とも一切の発言を控えている。迷う振りをしてやり過ごしている。このテーブルに並ぶ料理も私が怒られないように、一言一句間違えないように注文した。
ずるいではないか。お前たちも怒られろ。
私はドリンクのメニューをそろそろカルピスサワーを飲み終えそうなSちゃんに、「私はマッコリ飲もうかな」と手渡した。これでドリンクを決めたSちゃんが肉を焼いているオモニにオーダーするはずだ。
しかしSちゃん、「私もマッコリにする」と言って私にメニューを戻してきたのである。おいおい、せこいよSちゃんと思いながらオモニを見る。
オモニ、めっちゃこっち見てる。
「マッコリ二つお願いします。すみません」
このすみませんってなに?
店員さんを呼ぶ時のすみませーんという掛け声じゃないのよ。私のような者が貴方様に飲み物をお願いするなんて何たる無礼、という意味のすみませんなのよ。やってらんないのよ。

そこにバイトの子が注文したビビンバ2つを持って現れた。
オモニが空いた皿を幾つか手渡し、バイトの子がビビンバで手が塞がっていてオロオロしていると、ビビンバを置けばよいだろうと怒っている。その調子だ。ついでにSちゃんも怒ったほうがよい。
そしてオモニは厨房からコチュジャンを持ってきて、これをビビンバに入れろと言う。私は急いでコチュジャンをビビンバに入れて混ぜた。しかしSちゃんは入れない。オモニが再度コチュジャンを入れろと言う。Sちゃんは困っている。
Sちゃんは辛いものが苦手なのだ。
サムギョプサルにキムチを一緒に巻けと言われた時も、申し訳程度のキムチを乗せてやり過ごしていた。今回もどうにか切り抜けようとヘラヘラしている。
しびれを切らしたオモニがSちゃんに向かって「これはコチュジャンを入れてちょうどいい味になるように作っているから、コチュジャンを」
「この子辛い物があまり得意じゃないんですよ」
つい言ってしまった。

オモニは一瞬考えて、厨房から小皿を持ってきた。
「これは辛くないタレだけど、ビビンバに合うと思うから」
Sちゃんがそのタレをビビンバに混ぜ、ひと口頬張って「美味しいです」と言うと、オモニは少し笑って空いた皿を持ち厨房へ消えていった。

結局、Sちゃんは怒られなかった。
居るのに全然話に出てこないP氏はいつもこんな感じ。私がひとり怒られたことを不満に思っているのも、Sちゃんがどうにかやり過ごしているのも分かってクールに笑っている。

韓国料理店を後に、JRで帰るP氏と別れ、Sちゃんと地下鉄へ下りた。
改札へ向かう地下道は随分長く、まだ熱を持った身体にマフラーが暑い。
「あのおばちゃん、良い人なんだか悪い人なんだか分らなかったね~」
Sちゃんが呑気に笑っている。
私は少し間を置いて「美味しいものを食べさせてくれる人は、多分良い人なんじゃない」と答えた。
Sちゃんは思い出すように下を向いたまま「そだね」と言って、急に顔を上げると「水曜日のダウンタン録画するの忘れた!じゃあね」と改札へ走って行った。どう考えても間に合わないしTVerってあるよ。
改札に引っかかれと祈ったが、見事にすり抜けるところを見送る。
Sちゃんが階段の手前で振り返り、ブンブン手を振っている。こんなところが憎めない。

大江戸線に乗り込み、Instagramで外国人が河原で見つけた石を割る動画を見た。隣に座った外国人も私のその動画を覗いているようだった。石を割ると恐らくアンモナイトが出てくる。この動画の外国人はいつもアンモナイトを掘り起こしているから、結果は分かり切っていたが、隣の外国人のことを思って飛ばさずに見続けた。
ほら、やっぱりアンモナイトが出てきた。
ちらっと外国人の方に目線を向けると外国人もこちらを見て軽く頷く。やっぱりアンモナイトだったねと思ったのだろうか。
ちょうど乗り換えの駅になり、電車を降りる。
マフラーの暑さがついに我慢できなくなって引っ張るように外すと、出発した電車に追い越され、風も後から追い越していった。



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