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時折濃い人間味が垣間見える──『新約聖書を知っていますか?』ほか読書感想文
阿刀田 高さんの『旧約聖書を知っていますか?』『新約聖書を知っていますか?』を2冊まとめてご紹介します!
ハードルがバカ高な『聖典』という書物
欧米文学は、聖書を読まないと理解できないという話をよく耳にします。
日本文学にだって、著名な『神話』や聖書をはじめとした『聖典』は「そんなの基礎教養だよ」って前提の下に書かれているものがたくさんありますし。
……でも、読破のハードル高すぎません?
シナゴーグも教会も縁のない人生を送ってきて、ユダヤ教の教義もキリスト教の教義も風習もまったく知らん門外漢が読める代物ではないですよね??
“西洋思想・文学の礎”ともいえる『旧約聖書』と『新約聖書』に浅はかにも挑戦して、挫折したこと数回──「実際のところ、私は『聖書』を知って何がしたかったのだろうか?」と改めて自分に問いかけた結果、記事冒頭のように著名文学をもっと楽しめればいいという目的しか浮かばなかったので。
つまり、概要と流れを知っておけばいいのではないかということに気づいた(遅い)ので。
池上 明さんもお薦めしていた阿刀田 高さんの当シリーズを読んでみました。
※ちなみにユダヤ教の聖典と『旧約聖書』は違うものだそうなのですが、わたしの今の知識はそういう細かいところを理解できる段階ではないのでご理解ください。
泣けるほどわかりやすい
『旧約聖書を知っていますか?』の冒頭で、阿刀田さんは言います。
旧約聖書は広大で、幽遠で、複雑で、畳々たる山塊に似ている。踏破するのはなかなか難しい。
読者の心をわかっていらっしゃる……
(私は過去何度か「天地創造〜出エジプト」あたりで力尽きました)
そして読破の道筋を山道に例え、いくつかのお薦めルートを示してくれます。
そのうちの一つが「アイヤー、ヨッ」。
古典というものは、なべて人の名前が多くて閉口する。舌がもつれて覚えきれない。 〜中略〜 とはいえ、やっぱり何人かの主要人物については名前をしっかり覚えてもらわないと、話しが進まない。理解もむつかしい。逆に、名前をきちんと覚えてしまえば、話の流れもおのずと見えてくる。興味も増す。
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ……。
そこで四つの頭文字を取って並べて「アイヤー、ヨッ」となる。
このように序盤からユーモラスにその全体構造を紐解きながら『聖書』の登り口を示してくれるのです。
なんて優しいんだ……
ここまでで本書の優しさ・易しさがたぶん伝わったと思うので、私と同じく『聖書』挫折経験のある方は、ぜひお読みください(あとはダラダラ書きます)。
聖書を知る意味を改めて
私は、聖書というものが過去のある地点においてどのように解釈・活用されていたかを知ることに興味があります。そのことにより、当時の時勢を一側面から捉えてより深く知ることができると思うからです。
大半の人がその日の暮らしを生きるのに精一杯だった時代においては、聖書というのは(ある意味為政者側にとって都合よく)世を導き正す「掟」という一面を強く持っていたと思います。「正しく生きろ。さもなければ〜」的な要素を含んでいる部分は、ユダヤ教・キリスト教に限らず支配する側の思惑とうまく噛み合わせて活用されていた部分も多くあるのだろうと。
宗教が政治の中枢で力を持ちすぎたり、聖職者が特権化しすぎるなどして、その仕組み自体が腐敗していたこともあるだろうし、圧政や戦乱、感染症、飢饉など失意の蔓延する世においては純粋な信仰心が人の生きる救いになったことももちろんあるでしょう。
聖書の中には、なかなか突飛なエピソードがたくさん含められていますが、著者は「聖書に書いてあることが実際にあったことかどうかということにさして意味はない」と随所で書いています。
その記述がなぜ聖書に入れられたのか。どうしてそのくだりが必要だったのか。そして、それが後世のさまざまなフェーズにおいて、どのように人々に受け取られ、解釈されたのか。
その時代ごとの変遷を、西洋史や文学から読み解くことこそ、面白いのだと私は思います。
例えば、『旧約聖書を知っていますか?』の途中に言及されるサルトルの“人間については実存が本質に先立つ”という主張のセンセーショナルさ。
それは聖書とキリスト教の変遷を知っていないと絶対に気づかない観点ですし、主張も正確に読み取れません。
世界の歴史や文学を知る上で欠けてはならない知識。
今はこのエッセイ読破が精一杯の実力ですが、いつかきちんと『旧約聖書』『新約聖書』を読みたいなと思いました。
阿刀田さんの本をガイドブックとして携えて、になるかもしれませんが(笑)
番外|いつかちゃんと読みたい章節
いくつか原典(といっても日本語訳ですけど)で読みたいと感じた箇所があるので、メモしておきます。
ペテロの悔恨
(最後の晩餐のあと、「私は絶対に裏切りません」とイエスに告げたペテロに)イエスは振り向きゆっくりと首を振った。
「いや、はっきりと言っておこう。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度私のことを知らないというだろう」
〜 中略 〜
(イエスは捕らえられて大司祭の屋敷で裁判が始まる。その様子を密かにうかがっていたペテロに周囲の人が詰め寄る)
「この人、ナザレのイエスの仲間よ。まちがいない」
と、周囲に告げる。
「知らん、知らん、イエスなんか」
〜 中略 〜
そのとき、ひときわ高く、コケコッコー、と鶏が鳴いた。
〜 中略 〜
ペテロは家の外に逃れ、心ならずもイエスを裏切ってしまったことを、そして自分の心の弱さを嘆いて激しく泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。
……ダイジェストなのに、ペテロの悔恨、切なさ、自分に対する憤り。どうしようもない感情がめちゃくちゃ伝わってくる。人間味の溢れるすばらしいシーン。
ゲッセマネの祈り
『最後の晩餐』を終えて、自らの運命を悟りつつ、イエスは弟子を伴って向かったオリーブの畑で神に祈る。
死という人間にとって唯一最大の関門が見えているとき。いかに神の子として自分の役割を自認していても、果たして平静を保てるだろうか。イエスの感情の揺れ動きが見える壮絶なシーン。下記の阿刀田さんの解釈に、非常に共感する。
明日は命を賭けて使命をまっとうする。これまでの長い月日もひたすらそのために耐えて生きて来た人類の救済を企てた革命家が、
──はたして俺はまちがっていないのか──
激しい疑問にさいなまれた。
この不安は真実彼をおののかせ、身悶えさせ、汗を血に変えることさえあるかもしれない。
──死ぬばかりに悲しい──
なにかにすがりたい。祈りたい。
長い煩悶のすえ、彼はふたたび確信を取り戻す……。イエスだけではない。命を賭けて信念を貫こうとした革命家には、いつだってこんな夜があったのではなかろうか。決行を前にした最後の煩悶が。
ピエタ
ピエタ:主にキリスト教美術における題材として、聖母子像のうち「死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)」の彫刻や絵画などの作品である。
母が子に抱く愛。それは、世界共通の普遍的な感情の一つといってもよいのではないかと思う。著者は過去にサン・ピエトロ大聖堂のミケランジェロ作〈ピエタ〉に邂逅した際、こんな感情を抱いたという。
──いとおしい──
そんな感情に近い。わけもなく涙がにじみそうになった。
この〈ピエタ〉の主人公は聖母マリアである。彫像のまんまん中に、しかも前面いっぱいにイエスが横たわっているけれど、私の感動の原因となったものは、イエスその人ではなく、背後でそのイエスを包むように抱いているマリアが、表情と全身で作りだしている悲しみであった。
──ようやくわが子が帰ってきた──
でも屍となって……。どんな母でもつらい。
「ピエタ」はいくつもの芸術作品のモチーフになっているようなので、登場人物らの心情解釈も含めていつかヨーロッパにてお目にかかりたい。
パウロという存在
奇跡の邂逅によって回心し、キリスト教をキリスト教たらしめた伝道者。
思考のコペルニクス的回転とも言うべき変転が起きて、パウロはパリサイ派を捨ててキリスト教徒になった。弾圧者が信奉者に変わったわけである。
形骸化した仕組みや儀式を批判し是正を試みるのは、どの宗教にも共通する行動であるように見えるが、パウロの反骨心と思考の柔軟さが痛快。
言うまでもなく、ユダヤ教とキリスト教は異なった宗教である。だが、その根本にある神は同じものである。そして、ユダヤ教にとって割礼はその神との契約であり、その神への忠誠を誓う大切な儀式であった。
〜 中略 〜
「そんなに割礼が好きなら、根本から切ってしまえばいい」
と、パウロはそのくらい荒っぽい言辞も吐いていたらしい。
〜 中略 〜
割礼に代表される古い律法を、
「やっぱり守っていかなきゃ」
と考える人も多かっただろう。
それではキリスト教はユダヤ教の一派になり下がってしまう。その可能性も充分にあっただろう。パウロの反抗は実はその点にあった。
“パウロなくしてキリスト教なし”という言葉は、パウロの精力的な布教活動についてのみ言われるものではなく、神学的な判断においても言えることであったろう。