アラビアの御伽話のようなファンタジックな異国情緒と、自分の信条をもって生きる登場人物たちの含蓄をたっぷり含んだ台詞。中高生の頃に夢中になって読んだ萩尾望都さんの世界観を思い出すような、そんな作品。
メインストーリーは、羊飼いになって故郷を飛び出し、アンダルシア地方を巡るうちに自分の運命に導かれるようにエジプトに向かう少年の冒険譚だが、旅の間に出会う老賢人(王様)や、錬金術師や、イギリス人や、オアシスの少女や、らくだ使いとの対話には人生哲学がこれでもかと練り込まれている。
夢への挑戦に二の足を踏んでいるうちに、いつしか夢は日常の中に埋まっていく。
たとえそれが自分の一番の望みであると本能的に感じるようなことであっても、それに全身で飛び込むような行為は“大人になればなるほど”難しくなる。一方で、消極的に選びとった目の前にある人生そのものが、自分の幸せになることもある。
幸せって、なんだろう?
その命題を前向きに考えるきっかけになるような本だと思った。
私の好きな箇所
物語の前半は“夢に一歩踏み出す困難”が嫌というほど書かれる。「この方が幸せだから」「守るものがあるから」「他の人がそう考えるからそうせざるをえなかった」──本当にその通りだ。でも、本当にそうなのか?
旅に出てからの物語の後半は、他者やこの世にあるもの、それぞれのあり様をありのままに学ぶことで確実に変化していく少年の価値観が見どころだと思う。
夢とは? 幸せとは?
この本には、旅に出て以降“マクトゥーブ”という言葉が頻出する。
最初にこの言葉発したのは、異国の地で一文無しになった少年を雇ったクリスタル屋の店主で、彼曰く「おまえの国の言葉でいえば、『それは書かれている』というような意味さ」という言葉らしい。
すっきりと、不要なものがすべて削ぎ落とされた言葉だと思う。
すべて運命のままに、ということなのだろう。
ただしその運命は「そこにあるもの」でしかなく、真っ直ぐに相対しないと溢れるように逃げていく。それに真っ直ぐに相対したものだけが辿り着ける境地がある。
これは誰にでもできることではないし、だからこそ実践できない他者はそれを見て羨み、妬み、毒を吐くこともある。そんなことできるわけないと、夢の失墜を望む。その状況が、人が運命に正直に向かうことをさらに難しくする。
夢とは、幸せを見つけるための絶対的に必要な過程なのではないか。
この本を読んでそんなことを考えた。
夢に向かうメリットは近くには見えにくい。
よりによって“物事がよく見えるようになることが幸せとは限らないこと”まではわかりやすく見えていたりするから余計に厄介だ。その恐れを超えて“よく見えるようになること”に挑戦したところで、必ず得られるものがあるという確証はない。
誰もが、運命と目の前の生活と夢とに、何らかの折り合いをつけて生きている。幸せのためには自分に合ったバランスを見つけることが重要なのではないかと思う。
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