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弟の心情がたまらない──『たゆたえども沈まず』読書感想文

史実に基づいた、フィクション。
かの有名な画家であるフィンセント・ファン・ゴッホと、彼を理解し献身的に支えたと言われる弟、テオドルス(テオ)の物語といえる。

彼ら二人と、パリに在住する日本人画商の林忠正と加納重吉の交流を中心に物語は進んでいく。


時代背景

ナポレオンから続く帝政が終わり、第三共和政下で空前の好景気にわく19世紀末の花の都パリ。にわかに増えたブルジョワジーによる後押しもあり、芸術文化が花開いていた。

しかし絵画の分野では保守的なアカデミーがその権威をもって市場も支配し、高値がつくのは、歴史画や神話画をテーマとし写実的な筆致で描かれる絵ばかり。
「異色」として東洋の美としてのジャポニズム(浮世絵など)が世間の流行に乗ってもてはやされつつあり、「異端」として印象派が登場し始めたのがこの物語に描かれる時代。

グーピル商会で画商として働くテオの、純粋に芸術を愛する気持ちと、甲斐性のない兄に代わって一家を背負い生計を立てなければならないためにその芸術をより高く売るための商材として扱わなければならない葛藤が、序盤からそこここに描かれる。

ここにあるのは絵空事を描いた、どうしようもなく陳腐で、退屈で、くそくらえな絵ばっかりだ。
こんなつまらない絵を展示して、毎日毎日売りさばかなくちゃならないなんて……。

p.36

不思議なことに、自分が絵を描こうとは思わない。ただ、自分は絵を見るのがたまらなく好きで、自分が好きな絵を探し出すのはもっと好きなのだ。そして、これはすごい、という画家を見出したときーまるで神の声を聞いてしまったかのように、魂が震えるのだった。

p.51

複製画を見ただけで、これほどまでに動悸がするのだ。ほんものを見たら心臓が止まってしまうのではないか──と危ぶまれたほどだ。
それほどまでに、彼らの絵は、テオにとって「事件」に等しかった。
その画家の一派は、「印象派」と呼ばれていた。

p.55

テオの審美眼は、世間の評価ではなく、その作品の持つ魅力・引力に素直だった。彼の心は浮世絵や印象派に惹かれて止まなかった。
そして世間の評価も、徐々にではあるが「新しい窓」を需要する流れができていく。

グーピルで作品を売れば、給与とは別に、数パーセントの取り分が販売担当者に与えられる。だから、どんなにうんざりしていようとも、アカデミーの画家たちの作品を積極的に売り続ける──それがテオに課せられた義務だった。
しかし、このところ、美術市場に変化が起こりつつあることをテオは感じていた。新しいもの好きな新興のブルジョワジーの中には、より「革新的な」表現の作品を求める人々が現れ始めたのだ。

p.112

──なんてすてきなんでしょう。この絵を部屋の中に飾ったら、まるでもうひとつ新しい窓ができるようだわ!
その言葉こそがいまの美術界を象徴していると、テオには感じられた。
──新しい窓。そうだ、その通りだ。
新しい時代に向かって開け放たれた、新しい窓。
印象派の画家たちの作品は、まさにその「窓」なのだ。

p.114

絵画が結んだ友情

日本人画商の林忠正は日本での将来をすべて投げ打ってフランスに渡り、パリに店を構えた。
パリに東洋人は稀で、日本人であるだけで偏見や好奇の目に晒される時代だったが、しかしパリの社交界ではジャポニズムがブームを巻き起こしていた。その追い風を忠正は正確に捉え、利用する。隙を見せず賢く振る舞い、時に狡猾に、時にしなやかに、パリのブルジョワジーに浮世絵や東洋美術を売り捌く。忠正の態度は常に成功者としてパリで地位を得るという夢に向かい徹底している。

一方で、その忠正に学生時代から目をかけられ、アシスタントとして渡仏した加納重吉は商売人っ気が乏しく、誠実で正直で純朴なところのある青年だ。

──語学は使ってこそ意味があるんだ。外国語の本が読めるようになったところで、実際に使わなければ一語も知らぬも同然だ。
おれは生きたフランス語を使いたい。フランスに、パリに行って、周りが全部フランス人という中で、おれの言葉が通じるか、試してみたい。
忠正は本気だった。重吉は、忠正に同感しつつも、もしも周りが全部フランス人という中に放り込まれたら、自分ならばどうするだろう、と想像してみた。
金髪碧眼、洋装の外国人の中で、右も左もわからずに、袴姿であたふたする自分。米も梅干しも日本酒もなく、下駄も畳も風呂もなくて、戸惑う自分──が、見えた。
自分も、もちろん海外留学を狙っているし、パリに行きたいという気持ちは本物だ。けれど、心のどこかで、しょせん夢物語だ、と思っているふしがある。

p.65

その重吉は、絵を介して同業者であるテオとパリで出会い、互いの性根の純粋さに惹かれ合い、友情を育んでいく。

テオとその兄、フィンセント

フィンセント・ファン・ゴッホは、本作では芸術家といえばそれらしい繊細で気分の浮き沈みが激しい人物として描かれる(実際にそうであったらしい)。
その生涯は周知の通り短く、最後は悲劇ともいえる幕引きを迎える。

生前は絵が売れず、評価もされず、経済的にも弟に頼りきり。
そのお金さえ、画材ではなく酒に消えることがある。
その行動は仮に「優れた芸術家特有の資質だ」としてもあまりにも周囲に対して弁解のしようがなく、ダメ人間とレッテルを貼られてもおかしくない。

その兄を献身的に支えるテオ。
見るからに落ちぶれて、病的に感情的で、他者への感謝に薄いように見え、時に自分を罵倒するどうしようもない兄。見捨てたくなったことは数知れない。

「それでも自分はなぜ兄から離れられないのか」
「兄をなぜ支え続けるのか」

彼は常にその理由を自分に問いかけていた。

幼い頃、追いかけていた立派な兄の姿が忘れられないから。
兄の芸術的な才能に惹かれているから。
家族としての愛情・憐憫。

どれも正解で、また、どれでもない。
なぜなのか、結局のところわからない。

本作では、テオは確かに兄の描く絵にどうしようもなく惹かれていた。
一方で、その自分の評価を信じられずにもいた。だから忠正や重吉に、その客観的な評価を求めていた。そして生憎、その時点では誰もそれに対しての明確な解答を持ち得なかった。

兄の作品をどう思うか、彼の描くものに興味があるかどうか、フィンセントのいないところで、テオは重吉に尋ねることがあった。重吉は、もちろん興味がある、と答えた。しかし、それ以上のことは言えなかった。

p.176

どうしたらフィンセント・ファン・ゴッホが世の中に認められるようになるう? どうして世の中は兄さんを認めてくれないんだろう? なぜ兄さんはもっと世の中に認められる絵を描いてはくれないんだろう?
テオの心の声は、疑いに満ちていた。兄を認めようとしない世の中への、そして、なんとしても世の中に迎合しようとしない兄への不満が、いまのテオを猜疑させ、不安定にさせている。重吉はそう感じていた。

p.232

テオの、フィンセントに対する感情の揺れ動きが、この作品の中の随所に見られる。
そして最後まで、テオの中に明確に言語化できるような解答は存在しなかったのではないかと思う。
この世においてきれいに説明しきることができることなんて、絶対にない。
あまりにも人間的で、苦しくて、矛盾していて、ころころと変化する。
私はこのテオの心の揺れ動きが、たまらなく好きだった。

史実をもとにしているから、結末は変えられない。遅くとも、早くとも、人生の終末は必ず来る。
自身の人生を、ファン・ゴッホ兄弟はどのように捉えていたか。
作中で登場人物の忠正が口にした印象的な言葉ある。

この街をセーヌが流れている。その流れは決して止まることはない。どんなに苦しいことがあっても、もがいても、あがいても⋯⋯この川に捨てれば、全部、流されていく。そうして、空っぽになった自分は、この川に浮かぶ舟になればいい。──あるとき、そう心に決めた。
たゆたいはしても、決して流されることなく、沈むこともない。⋯⋯そんな舟に。

p.338

夢や運命に果敢に立ち向かう人間の孤独。
彼らはたゆたい続けた結果、それでも沈まない人生が送れたのだろうか。

その評価は、本人が下すべきであって、他者に委ねるものではない。



雑記

本書の中で下記のように書かれる「タンギー爺さん」。

(テオの目線からのタンギー像)
明確な売り上げ目標を掲げ、ブルジョワジーのマダムのお茶の相手をして、あの顧客にはこの画家の作品を、この顧客には来週入ってくるあの一枚をと、常に頭の中でめまぐるしく駆け引きをする──「グーピル商会」で自分がやっていることにくらべて、タンギーのほうは、絵が売れようが売れまいが、そんなことはちっとも意に介さず、ただただ若手の画家たちの力になりたいと、貧乏ひまなしを基本としているのだから、なんともかなわない。
日々のパンすらも買えないほど困窮しながら、それでも描くことをやめようとしない貧しい画家たち。フランス芸術アカデミーが牛耳る画壇に認められることをむしろとよしとせず、自分だけの表現を見出そうと日々もがいている。そんな変わり者の画家たちをこそ、タンギーは応援しているのだった。

p.176

鷹揚で、人好きがして、温かい人。
飾らない人が、絵のモデルとしてちょっとおめかししてかしこまっている。
なんとなく、モデルに対する情愛も感じられる。
そんな雰囲気を感じさせるこの絵が、私は好きだ。

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