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尋常じゃない蔑視の中で──『女盗賊プーラン』読書感想文


この話の主人公であるプーラン・デヴィは実在の人物だ。

本人の語りを元にしたという自伝。
世界の不条理をすべて背負って生きているような、とにかく凄まじい話だった。これが1960年前後に生まれた女性の半生かと。
なんだよこれ。辛すぎないか。

わたしが何も話さないうちから、なんと多くの人がわたしについて語ってきたことだろう。なんと多くの人がわたしの写真を撮り、それをいかに自分勝手に使ってきたことか。虐待され、辱められて、なお生きている貧しい村娘を、人々は軽蔑してきた。
助けを求めて手を伸ばしたとき、だれもその手を取ってはくれなかった。わたしは厄介者、犯罪者と呼ばれつづけた。わたしはよい人間ではなかったかもしれない。だが、犯罪者でもなかった。
わたしが男たちにしたことは、わたしが男たちからされたことだった。

エピローグ(下巻p.243)

インドの「低カースト」の「貧困家庭」に「女性」として生まれ、次から次へと、考えつく限り、いや考えもつかないような貶められ方をされ、それでも生き抜いたプーランという人。
本書の最後のことばは、まさに彼女の叫びではないか。

生まれ、カースト、肌の色を問わず、また男であろうと女であろうと、だれもが尊厳をもっている。それを、わたしは証明したかった。
わたしは敬意を払ってほしかった。
「プーラン・デヴィは人間だ」と、言ってほしかった。
ほかの人たちが、当たりまえのように言ってもらっていたように。

エピローグ(下巻p.244)


それぞれの正義

プーランは11歳で結婚した先で相手の男に虐待される。ほうほうの体で出戻った故郷でも身の置き場はなく、男たちに嫌がらせを受ける毎日。挙句のはてに強姦され、その不条理に立ち向かえば、さらに罪を被せられ囚われた先で腐敗した警察官にまた強姦。

10代半ばにして女として生きる道も矜持もすべて奪われ、憎しみを募らせながら村で“浮いた存在”として過ごしていたプーランは、ある日、彼女の存在に目をつけた「ダコイット(盗賊)」に誘拐される。
皮肉にも、人非人の集団と人々に恐れられるその盗賊団で、彼女ははじめて人間として扱われ、愛を知ることになる。

わたしのまわりにいる男たちは盗賊だった。社会に背を向けた無法者たちである。だがだれ一人、わたしを誘惑したり、力ずくで襲ったりはしなかった。いやらしいことば一つ吐かず、とても礼儀正しかった。村では、あらゆるしきたりや義務に縛られていたにもかかわらず、男たちはしばしば犬のような振る舞いをした。わたしは、ジャングルや山で暮らすほうがはるかにいい、と思いはじめた。人間らしい扱いをされるのは、はじめてだった。

正義(下巻p.51)

盗賊団の一員として、プーランは自分を貶めてきた存在(男性)に“復讐”することで、自分と同様に虐げられている女性たちを救うことを使命とするようになる。
目的のために家財や金品を強奪し、男性を見せしめに叩きのめし、時には人殺しもする。

しかし、とわたしは思った。人は犯罪と呼ぶかもしれない。だがそれは、わたしに言わせれば正義なのだ。

正義(下巻p.55)

プーランがいうと、本当によくわからなくなる。何が正義なのか。

わたしのカーストの人々は、こうしたこと(プーランが虐げられる女性の代理として男性を私刑で成敗すること)をみんな伝え聞いて知っていた。だから母が娘を守ろうと思ったら、あるいは夫が妻を、妹を守ろうと思ったら、やるべきことはただ一つ、淫乱な権力者に、そんなことをしたらプーラン・デヴィが来るよ、と言えばいいのだった。
じっさい、わたしは行った。

わたしは貧しい人たちに金を分けてやり、悪いやつには彼らがやったのと同じことをして罰してやった。警察が、貧しい者の訴えを聞かないのはよく知っていたからだ。不名誉な事態を避けるため、何百という若い女性が闇で危険な堕胎手術を受けていた。娼婦呼ばわりされたり、あるいはされるのではないかと恐れて、川に身を投げたり、井戸に飛び込んだりする女性もいた。みんな、恐れながら生きていた。

盗賊の女王(下巻p.143)

プーランのすごさ

“義賊”として暗躍した彼女の存在はインドを大きく揺るがせた。
一部から英雄視され、一部から敵対視され、人々はその挙動に注目した。
彼女は衆目のもとで1983年に逮捕・投獄され、1994年に釈放、1996年に国会議員となり、2001年に自宅前で暗殺される。

社会の「身分差別」と「女性蔑視」を象徴するような人生。彼女は時代のカリスマであり、スケープゴートでもあった。

プーランの強さは、どこから生まれたのか。

物語を追っていると、彼女はたしかに負けん気は人一倍強いが、ふつうのどこにでもいる感覚を持った人間であることがわかる。
いわれのない批判に当たり前に傷つき、容赦ない暴力に当たり前に怯え、理不尽さに涙し、不平等には腹を立て、どうにもならない事態を諦めて、それでも生きているかぎり、生きていこうとする。

ただ、彼女はそのような状況下にあって、与えられた環境で「当たり前だった」ことが必ずしも「当たり前でない」ことに気づく賢さを持っていた。

ものごとがよくわかった人たち、読み書きができて、英語がしゃべれる人たちに、わたしは法廷で嗤われていた。彼らに比べれば、わたしは獣に等しかった。同じカーストの貧しい人たちがみなそうであるように、わからないことにぶつかるとただ驚き、怯えるだけだった。怖いこと、信じられないことから、ひたすら逃げて身を守ろうとする。無知というのは、飢餓と同じくらい残酷なことだと、わたしはこのとき思い知ったのだった。

無知という残酷(上巻p.203)

どうにもならない状況において、こういう気付きをできることのすごさ。
どんな状況にあっても、何をどうすればいいか、自分の頭で考え続けられることのすごさ。
私なら、とうに諦めている。

この世に本当に強い人などいない。

その人が強く見えるのは、
突き抜けて鈍感なだけか、
きちんと現実に向き合い自分の頭で対処しているから。

その言動や行動で人の心を揺さぶり、真から共感されるのは、必ず後者の人だと思う。


カバー写真:Image by Ton W from Pixabay

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