救世主はいるのか
救世主がいまに現れて人類を救ってくれる、と教えているような教えることを諦めたような宗教が欧米に権威として存在するし、ときどき我こそが救世主だメシアだ独生女だとのたまうのが現れるのも見かける。
日本ではオウム真理教という科学テロを起こしたカルト集団がかつて存在し、その教祖が「最終解脱者」を自称して人類救済計画と称するタントラヴァジラヤーナを実践したことはあったが、それ以外に救世主を騙る者はそうそうは現れない。
救世主が林立する大風呂敷広げて憚らない韓国と比べ、日本は静かに折りたたんで仕舞う謙虚さが取り柄の文化・国民性だからかもしれない。
そもそも救世とは、世の中を救う、人類を救うとは、どうすることなのか、ということがはっきりしていない。
何をどうするのかも判然としないのに私が人類を救うと言えてしまうのは、単なる莫迦か、詐欺師か厚顔不遜の恥知らずとしか思えまい。
救世主などというものが本当にいるのか、という命題の答は、「今の世の中には一人もいないだろう」と私なら答える。
「今の世の中には」という条件を付けるのだから過去にはいたのか、と問われそうだが「過去にも一人もいなかった」と断言する。
救世主が現れていたら人間という種から人間を凌駕する優越種の生き物がすでに発生し存在していなければならないからだ。
それがいない以上救世主は救世してくれていないことになる。
「今の世の中には」と条件をつけたのは、救世主が現れる可能性は過去にもあったし、今の世にもその可能性はあったからだ。
しかし残念なことに救世主が現れるところまではいかなかった。
その前段階の自然法司法試験合格者を輩出するところまでで終わってしまっているためである。
自然法司法試験合格とは、脱マインドコントロールであり、釈迦のいう解脱だ。
悟りも同じ段階に至った者の状態を表す。
その人が何なのかについて敢えて言葉で定義するなら「預言者」ということになるだろう。
預言者とは、ユダヤ律法の教典である旧約聖書に記述のある表現で、意味するところは「神の意志を知って自らの言葉で伝えることのできる能力者」ということになるだろう。
神の言葉を人々に伝える能力者として「預言者」と「巫女」がいるが、預言者は神の道理を自らの理知によって理解し自らの言語表現を駆使してそれを伝えようとするが、他方巫女は神から降りて来た言葉を全く意味も理解しないまま口移しで伝える能力者を指す。
巫女のすることは呪術であり霊的なものと普通理解される。
確かに巫女性のある言葉を編む女性は今の時代にも存在しているような気がするが、預言者とは全く違う能力者だ。
神の啓示を受けた、などというと巫女のような能力者のようなニュアンスを帯びてくるが、ナザレのイエスはそのようなものではない。
イエスはむしろ、釈迦と同じような悟りを開いて預言者の能力を備えたということはかつて一度書いたことがある。
イエス・キリストと呼ばれる人物も、釈迦・仏陀釈尊と呼ばれる人物も、預言者ではあったが呪術家でも救世主でもなかった。
ならば救世主など根本的に存在しないのか、と言えば、そうでもない。
先述した通り、人類救済がどのような状態のことなのかによるが、場合によれば人類を救うというような状態に導く者は現れなくはないだろう。
無論それはイエス・キリストや釈迦を超えた、もっと先の達成者的存在だ。
種についての一般的な話だが、すべての生き物、すべての種は、発生した時から絶滅する宿命を背負っている。
絶滅しない生物はこの世に存在しない。
種の保存だとか、子孫繁栄だとか、優秀な種を残す法則により一人の優れた男が多くの女を自分のものにできる権利があるとか、よくそんな話をする連中がいるが、種が子孫を残すのは優秀だとか競争に勝ったとか、そういう勝利や栄光の証などではない。
単に劣った連中が生き方を間違って、失敗した生殖の結果に過ぎない。
実際に子を成している連中をみて、これが優秀な遺伝子の適者生存の結果だとは到底言えないような実例など吐いて捨てるほど存在する。
愚かな男女ほど無計画に盛るし望まない子を作り中絶したり責任のなすり合いで認知するのしないのと揉めてみたり、自己決定権がどうとか言って、生殖を排除した性交関係を常態化しようとするのをよく目にするはずだ。
優れた個体の証明として子孫を残しているならかかる無様な悶着騒動は生じないだろう。
「絶滅する種」を単にそのまま再生産しているに過ぎないのが人類の歴史であり連綿と続いてきた命脈にすぎないのだ。
まず、優れた個体は進化種を産もうとする、それに失敗した生殖が同じ人間という劣った種の現状維持的再生産で子孫を産むにすぎない。
不可避に絶滅する宿命を背負いつつ、その絶滅を先送りにする種の再生産をしつつ、同時にその種が絶滅した後にも生き残る種を産み出すチャンスと可能性を、人に限らずすべての種は持っているということだ。
人類の絶滅を回避することなど根本的にいってできないのだ。
絶滅する時を先延ばしにするために、同じ劣った種の子を産んで育るということをしているわけだ。
人類を救済する救世主は、その自らの愚かさによって自滅する、悔い改めもしないで絶滅してゆく人類を救ってやろうとする都合のよい人ではない。
滅びる人類は見捨てる。
自然法によって定められた「元型」通りに正しく生きた者のみ、進化種をそこから発生させて生き残らせるのである。
救世主とは、自分は滅びる人間であるが、自分を起点として、次の優れた進化した人類を産み出す者のことである。
誰かに助けてもらえるのではない。
「元型」を正しく活性化した結果の自己実現として自然法司法試験に合格して預言者となり、もう一人の自分に直接声を聴かせて、結婚し子を成すことで自ら救世主になることが「元型」に予定された正しい生き方である。
すべての人間が生得的な「元型」に従って自ら救世しないといけないわけだ。
救世主になる方法は「元型」の中にのみ書いてあり、それを読み解くことは他人にはできない。
自然法によって生得的に決められたたった一人が誰であるかは、キリストでもお釈迦様でも知らぬ仏のお富さんなわけだ。
救世主を謀って勝手に結婚相手を決めて添わせる祝福結婚とかいう合同結婚式を強いる統一教会文鮮明・家庭連合韓鶴子など、原罪にすぎないエセの結婚を強いるヘビかルシファーのようなものでしかない。
各自銘々生まれ持つ「元型」の内容など誰にも教えられることもできず、教えることもできない。
誰にも教えられないことを、宗教に縋って教えてもらって救ってもらおうなどという甘い考えはすぐに捨てたほうがいい。