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一刀流で生きる
二刀流は一刀流よりも有利なのか?
はたして二刀流は有利なのだろうか。
剣道の試合を見ていても、二刀流は少ない。それに、実在の剣士にしても、宮本武蔵
くらいだ。その宮本武蔵も、佐々木小次郎と戦った大一番では舟のオールを削って武器にした。ここぞというときには一刀流だったのだ(これはフィクションだと思うけれど。)
森博嗣
あ、二刀流といえば大谷翔平選手のことで、
投手と打者の二刀流を思い浮かべてしまうの
ですが、本来は、日本の刀を「同時に」
持っている「流派」のことだった!と。
右手にボール、左手にバット、というのは
現実的にはあり得ないんだけれど、
どこでだれが名付けたのかはもはやわからない
けど、日本人には「二刀流」=宮本武蔵で、
「二つのことを同時にやってのけるすごい人」
というのでスッとイメージできたんだなあと
思うと「名前をつける威力」は強力です。
野球を知らなくても「なんだかすごい」ことと
言の葉への乗りやすさでは、秀逸なのでした。
そんな大谷さんも今年は一刀流で「世界一」
をとったので、宮本武蔵が「ここぞ」の場面で
一刀流だった、というのとどこか重なります。
腕が二本あるのだから二刀を使うのは自然である。たとえば、二丁拳銃なども同様だろう。だが、左右に刷毛を持ってペンキを塗る職人はいないし、ほかのスポーツでも、ラケットを両手に持つような光景は見たことがない(ルールで禁止されているのかな?
あ、そうか、2本あるんだから二刀流は強そう
なんだけれど、刷毛(ハケ)を2本もつ
ペンキ職人はたしかにいないから不思議です
ペンを右手と左手にもって書く作家も、
包丁を2本もつ料理人もきっといないですね
利き手とそうでないほう。
という「使い分け」だったり
「ここぞの連続」を伴うプロの仕事はやはり
一刀流なんだなあ。
というか、一刀流ずつの右手と左手の重みが、
伺い知れてきます。
「どちらか」ではなく、
「どちらも」たいせつ。
普通利き腕というものがあるし、あと人間の目が認識できるのは常に一箇所である。こつの目で、それぞれ別のものを見ることはできない。意識も一つで、左右の腕をまったく独立して動かすことは難しい。司令塔ともいえる頭が一つだからだ。
あたまはひとつ。
そう考えていくと理にかなっているのですね。
だけど兎角、「二つに分けて考える」という
人の性というものがあって、
東洋西洋、白と黒、与党と野党、紅組白組。
と、本来は一つなんだろうものを、
分けて考えずに、「頭も心も、人間もひとつ」
がもともとの構造なのだとしたら、
「一刀流な世の中」に逆戻していく方向は
ないのかなあ、と思えてきます。
どちらかを選んだりせず、両方選ぶ。
または、どちらも選ばないという選択。
「ここぞ」という今人類が局面にあるとしたら
「一つ」の、価値が浮かび上がってきます。
おそらく、長い年月をかけて刀は一本がベストだとわかったのではないだろうか。あと少し思うのは、そもそも日本刀は屋内で用いる武器で、狭いところで振り回すサイズになっている。その場合、片方の手は、戸を開けたり、なにかを掴んだり、別の目的のために使えた方が有利だったのかもしれない。
一本がベスト、という世の中になるにはまた
何世紀も、かけて、時間がかかるんだろうなあ
そもそも、世界は狭い。地球は一つ、なんです
片手は世の中、もう片方の手は自分を守るため
に常によゆうをもっておく。
両手を、世の中にだけむけて武器にするのでは
なく、バランスよく自分にも向けてゆく。
屋外で戦うなら、槍や長刀が有利になり、さらには鎖鎌とか弓矢などの飛び道具が用いられる。刀はそもそも接戦で、少人数を相手にする武器だといえる。宮本武蔵が、いざというときに長いオールを持ち出したのは、その柔軟な作戦にこそ、真の強さを見るべきなのだろう、たぶん…・…。
柔軟な作戦を、じぶんにも。
そんな優しさを、世界にも。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます
きょうのよかったこと三つ。
・自分のじゃないけど落ちてたごみを拾いました。それを誇るわけではまったくないけど、放っておかない自分もいるんだなと、知れたこと
・やさしい運転をした。道を譲った。急いでるときほど、そうするのって難しけど、譲ることもできるんだなあと知れた
・子どもとかけっこ競争をした。ふだんはしんどいし参加しないけど、してみた。そういうことも、やってみると,案外面白いと知れた。