「私ノンフィクション」
ふつう、noteを書く時は、
中立の存在であり、取り上げる対象には
なるべく関与しない。
とは、ならないですね。
とことん主観。
そこがnoteで、書くコトの魅力。
だれとだれ、なにとなに、に対して
中立か?を考える必要は、基本ないですね。
(もちろん、人を傷つけてはいけないけど)
でも、だからこそ
「中立」ってなんだろう?と考えてみる。
自分の中で、ある考え方や価値観、
伝えずにいられない経験があったとして、
その考えをドーン、とnoteで書くのか
あえて、その逆の考えに自分で振ってみて、
「どっちも正解かも」→中立の立場
と考え遊ぶ意味はある気がします。
「私ノンフィクション」
エッセイも小説も、超初心者の私には
そんな域にかんたんにはいけませんが、
物語の当事者に、「私」が登場するなんて、
面白い。
noteを書く時は、「私」が物語の主人公だし
ノンフィクションで、私を書きます。
だとして、そこに、
「もう一人の私」を登場させてみたら
どうだろう?
私にツッコミをいれる私。
いま、こう書いている私に対して、
「え、この記事、どこがおもろいん?」
「あー、それわかるけどさ、
本音隠してへん?」
みたいなことを書いちゃう、みたいな。
「書くという行為を超える」
ってなんだろう。
人生を超えた真剣勝負の熱、というベクトルも
もちろんあると思います。
そうありたいなとも思います。
思います、が、
書くことは、人生そのもの、でもあります。
その人生は、
熱さも、冬の寒さも、夏から秋に向かう冷も。
全部ひっくるめられている。
その、小さな気温と体温の変化を、
飾り気なく記していくこと。
真剣勝負。というか、勝ち負けではなくって、
自分の強さも弱さも、さらけだすという、
「リスク」はありますが。が、
むしろ、薬。漢方薬のように、じわじわと、
自分の人生を快方して、開放していく
プロセスそのもの。結果、ではなくって。
狂気を、歓喜にして。
自分とは遠く離れたものを、
手繰り寄せるかのように、というよりは、
そのままにしておいて観察することを味わう。
観察している自分を中立的に。
あ、じぶん、こんなことに、
心ゆらしたんだなぁ、なんて。
映らないものを、移していく。
意識してなかったものを、ちょっとだけ
意識に移していく。
私ノンフィクションは、
私に嘘をつかないこと。
私を、投影していくこと。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。
沢木耕太郎さんの、エッセイしか
読んでないんですが、面白くて。
小説も良いけれど、
小説家の方のエッセイは、どことなく、
肩肘張らない私ノンフィクション感がすきです
こうべをたれる、ススキもすきです。
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