問いはTOY
問いはTOY。
人類そのもののような深い歴史、哲学である
と同時に、人生を面白くしてくれる、
「おもちゃ」のようにも思います。
特に幼児期の子どもたちの問いは、
時に大人を困らせるように無邪気で、
大人には思いつかない発想で、
周囲を驚かせては、新しい気づきをくれます。
「月はおちてこないの?」とか
「なんで車はくるまって名前なん?」とか。
もちろん仕事でも、問いなくして
前に進まない大切なものとして私自身、
こだわっていること、「探究」しています。
「どう当たり前か」って面白いですね。
「当たり前を疑う」とか「当たり前って有難い」
とか「当たり前と思うな!」みたいな、
わりと深いようでサラッと言われて終わる
「当たり前」という言葉。
たとえば、
毎日ごはんをたべるという当たり前が、
どのように当たり前なのか?
当たり前の、手前にある当たり前としては
ごはんが手元に届くまでの当たり前と、
食べた後体の中でどう当たり前になってくのか
というプロセスの当たり前と。
そもそも、人間にとって不可欠な、
ごはんを食べる意味は、成長、健康だけでなく
人間関係における意味の当たり前ー
ひとりでたべる、だれかとたべる、
社会的な意味での当たり前があったり。
やりたいことを見つけるには?
という問いには、
前提に、
自分の問いが見つからないー。
というものがあるんですね。
自分は何が好きなのか?
自分はどんな価値観を大切にしてるのか?
自分は何者??
やりたいこと to do
のまえに
ありたい自分 to be
分けられるものでもなく
密接に混ざり合うもので、
どちらかだけでも不足しちゃいますが、
問いにおいては、
whatと
why?はいつもセットにしておくと、
「考えたけどわからん!」と陥らずに
いられそうです。
なぜその問いがあるのか?
という問いはTOYです。ハッてしました。
自分は何をやりたいのか?
という問いは、なぜあるのか?するのか?
自分は何が好きなのか?
という問いは、なぜあるのか?するのか?
あるいは、
なぜその問いを自分は問うたんだ?
という、
「問い自体を問う」行為は、面白いです。
本質、って大事だと思いながら
いつもむつかしいです。
本質的な問い、は本質に迫る問い。
きっといい問い。
本質的でない問いとは、表面的な問い?
いつどこでなにを、どのように、なぜ?
という目に見えやすい、イメージしやすい
ものを引っ張り出す問い。
それで、具体的にしていく問い。
一方本質的な問いは、抽象的に概念化
していく問い、といえるのでしょうか。
それも大事だけど、
それ以上に、
問われた人あるいは自問自答した後、
「高揚」する問い。
おもちゃで遊んでる時は夢中だけど、
それが終わったあとの充実感と喪失感。
たのしさとせつなさ。
そんな感情、あたまではなく胸中のゆらぎ。
ここちよいものばかりでなくて、
ざわっとするような、それでいて
さいごは優しいTOY。
おとなになると忘れがちのそんな
問いとTOYを。
今日もお付き合いくださりありがとう
ございます。
きょうよかったこと3つ
・自分から話したけた(この4年で初めて)
・初めて4時過ぎにはマクドに着いた(朝活し始めてはじめて。いつもはだいたい5時)
・たこやきが初めて1回目から上手に焼けた(1回目はだいたい温度のせいか、うまくやけない)