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問いはTOY

現在は学問論、大学論といった領域で思考をすすめる私は、人一倍、哲学への思いが強く、そういう私から見れば、「問い」とは人間精神そのものであり、紀元前から脈々と続く哲学の歴史とも言え、執筆にあたってかつての偉人たちの思想に抱かれながら拙いながらもなんとか歩を進める、そういう感覚でした。


「問いの立て方」
宮野公樹

問いはTOY。
人類そのもののような深い歴史、哲学である
と同時に、人生を面白くしてくれる、
「おもちゃ」のようにも思います。
特に幼児期の子どもたちの問いは、
時に大人を困らせるように無邪気で、
大人には思いつかない発想で、
周囲を驚かせては、新しい気づきをくれます。

「月はおちてこないの?」とか
「なんで車はくるまって名前なん?」とか。

もちろん仕事でも、問いなくして
前に進まない大切なものとして私自身、
こだわっていること、「探究」しています。

ゆえに、誰も読んだことのない新しいものを書いた、といったつもりはありません。誰しもが「当たり前」と考えることを、誰しもが使う「当たり前の言葉」で綴っただけ。しいて言うなら、その「当たり前」が、どう「当たり前」か、それについて私なりに徹底的に考えてみたものです。

同上

「どう当たり前か」って面白いですね。

「当たり前を疑う」とか「当たり前って有難い」
とか「当たり前と思うな!」みたいな、
わりと深いようでサラッと言われて終わる
「当たり前」という言葉。

たとえば、
毎日ごはんをたべるという当たり前が、
どのように当たり前なのか?

当たり前の、手前にある当たり前としては
ごはんが手元に届くまでの当たり前と、
食べた後体の中でどう当たり前になってくのか
というプロセスの当たり前と。
そもそも、人間にとって不可欠な、
ごはんを食べる意味は、成長、健康だけでなく
人間関係における意味の当たり前ー
ひとりでたべる、だれかとたべる、
社会的な意味での当たり前があったり。


ここで読者のみなさまは、最後の第三章「いい問いの見つけ方」こそがまず最初なのでは?と思われたかもしれません。しかし、私はそのようにできませんでした。なぜなら、そもそも問いは誰しもが既にもっているものだからです、必ず。
例えば、普段、学生と話していて「やりたいことが見つからない」という人は少なくありません。これはいうなら「自分の問いが見つからない」という類のものですが、その「やりたいことが見つからない」というのも立派な「問い」でしょう。

同上

やりたいことを見つけるには?
という問いには、
前提に、
自分の問いが見つからないー。
というものがあるんですね。

この種の問いの答えは「やりたいことが見つかること」と思われがちですが、ほんとうにそうでしょうか。見つからないのは「やりたいこと」ではなく「自分」のほうでしょう。
自分がわからないからやりたいことが見つからない。自分の中に軸がない。そういう段階で、いかに多種多様な体験をしてみたり、片っ端からいろんな本を読んだりしても、やりたいことは見つかりません。

同上

自分は何が好きなのか?
自分はどんな価値観を大切にしてるのか?
自分は何者??


付け加えますが、そのような探索活動を否定しているのではありません。自分の外に何かを見つけようとして探索するのではなく、いろんなものを探索しながら、自分の気持ちは何に反応するのかを観察する内なる目がほんとうに大事だと思うのです。自分はこれをやってみて面白いと感じた。でも、なぜ面白いと感じたのだろう。それは気分的なことなのか、それとも自分自身の根幹、アイデンティティに関わったことだからなのか。

同上

やりたいこと to do
のまえに
ありたい自分 to be

分けられるものでもなく
密接に混ざり合うもので、
どちらかだけでも不足しちゃいますが、
問いにおいては、
whatと
why?はいつもセットにしておくと、
「考えたけどわからん!」と陥らずに
いられそうです。


肝心なところなので繰り返しますが、「なぜその問いがあるのか」という問いを問う問い。これは「問いがあるからある」という存在そのもの、あるいは存在に触れる考えのことであり、根底に位置するゆえに場面や条件に決して依存しません。それらの問いが形成される「土台」の方なのですから、どのような問いにも共通し当てはまる形式です。ある場面においてのみ「いい」のと、あらゆる場面において絶対的に「いい」のとではどちらが本来の「いい」かは言うまでもありません。

同上

なぜその問いがあるのか?

という問いはTOYです。ハッてしました。

自分は何をやりたいのか?
という問いは、なぜあるのか?するのか?

自分は何が好きなのか?
という問いは、なぜあるのか?するのか?

あるいは、
なぜその問いを自分は問うたんだ?
という、
「問い自体を問う」行為は、面白いです。

だからこそ、どのような場面、どのような時代にも決してブレることはなく、そして、我々の歴史ではそういうものを「本質」と名付けています。
そう、あっさりと言うなら「いい問い」とは本質的な問い。そして本質的とは、「なぜその問いがあるのか」といった根源的な存在についてまで考えられているか、あるいはその根拠を踏まえて考えられているかどうかのことと言えます。

同上

本質、って大事だと思いながら
いつもむつかしいです。
本質的な問い、は本質に迫る問い。
きっといい問い。

本質的でない問いとは、表面的な問い?

いつどこでなにを、どのように、なぜ?
という目に見えやすい、イメージしやすい
ものを引っ張り出す問い。
それで、具体的にしていく問い。

一方本質的な問いは、抽象的に概念化
していく問い、といえるのでしょうか。

それも大事だけど、
それ以上に、
問われた人あるいは自問自答した後、
「高揚」する問い。
おもちゃで遊んでる時は夢中だけど、
それが終わったあとの充実感と喪失感。
たのしさとせつなさ。
そんな感情、あたまではなく胸中のゆらぎ。

ここちよいものばかりでなくて、
ざわっとするような、それでいて
さいごは優しいTOY。

おとなになると忘れがちのそんな
問いとTOYを。

今日もお付き合いくださりありがとう
ございます。

きょうよかったこと3つ
・自分から話したけた(この4年で初めて)
・初めて4時過ぎにはマクドに着いた(朝活し始めてはじめて。いつもはだいたい5時)
・たこやきが初めて1回目から上手に焼けた(1回目はだいたい温度のせいか、うまくやけない)

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