見出し画像

自分に素敵なレッテルを貼る


読者からいただく感想によれば、「目から鱗が落ちた」と毎回驚いている人もいて、よほど鱗の多い目なのだな、と感慨深い一方、「いいかげんにマンネリだ」という至極まっとうなご指摘もある。この指摘は、実は一作めからあったし、デビューした当時からあったので、マンネリの意味が人によって違うのかもしれない。

「つぶさにミルフィーユ」
森博嗣

目から鱗が落ちる以外に、
びっくりする程の驚き発見を表現できないのか

「マンネリ」以外に、
マンネリを表す言葉はないのか。

森博嗣さんに言われるとそんなことを、
考えてみたくなる「引き」がある。

きのう、落語というものを生まれて初めて
見てきたけれどこれはもう、むしろ
観客側が「なんとか話についていこ」とか
「さあさあ、次のここで、笑うぞ」という
前のめり感があってこそのお笑いになるとも
感じた。

目から鱗を、たまたま落とされるのではなく、
積極的に堕としにいく。
マンネリはもたらされるモノではなく、
実は自分で取りに行った結果である。

できれば人はマンネリしたくないんだけれど、
本当はマンネリのせいにして、自分が飽きた
責任転嫁してるだけ。ということもある。

とさえ、思えてくる。

だいたい、書いているのは一人なのだから、同一の頭脳より発するものである。どうしたって一辺倒になりやすいだろう。特に、これは何度も書いておきたい、というものはとても多い。それくらい、書いても書いてもわかってもらえない、というのがだいたいの作家に共通する心理なのではないか。被害妄想かもしれないけれど。

同上

自分で、自分の文章にマンネリしてくる。
ということは意外となくって。

結局は同じことを、違う切り口で、
切り裂いては届けてるだけだったりする。

同一の頭脳なんだから、
一辺倒でいいじゃない。
とまずは自分を認めてあげる。
違うことを無理に書こうとすると、
なんか変な感じになる。
だから、人になんと言われようと、
貫いてみせればよい。

否、そもそも、わかってもらいたいと思っているのではない。つい、書いてしまったが、正直に我が身を振り返れば、わかってもらえたことなんて人生で何度あっただろうか、というくらいの大奇跡なのだ。軽々と期待する方が間違いである。

同上


わかってもらえないことを自覚して、
ああだこうだというのは大人であって。

たいてい、親にわかってもらえる子供なんて
いなくって。

まあ、わかってもらおうとしない、
ということです。
それよりも、自分が自分の出力パターンを
わかっていることが大切。

人に期待せず、自分にはまあ、そこそこに
期待はしておくことにする。


多くの方は、本を読むことで、なんらかの気づきが得られたと喜ぶ。しかし、この場合、「気づいたこと」つまり知識に価値があるのではない。「気づいた」というその体感だけが、各自の身につく。それが蓄積されたものが教養だろう。同じく、「知ること」でも、「こと」に意味があるのではなく、「知る」行為が重要なのだ、と思う。

同上

ことよりも気づき
ことよりも知ろうとする行為。

体感こそ、たいせつ。
気づこうとしてる自分を、
知ろうとしている自分に、意識的に
もうすこしなる。

わかってもらえるなんて、思わないこと。

最近、こういったことを書くと、「森流」だと言われたりする。揶揄されているのか
賞賛されているのかはわからない(どちらでも同じだ)。こういったレッテルを人々は大好きで、そうしないと他者と気持ちの共有ができない、と思い込んでいる節がある。

同上

一億総レッテル。

なぜレッテルを貼りたがるのか。

それは、レッテルを貼られたことがないからだ

レッテルを貼られるほどの出る杭にもならず、
レッテルが貼られそうになると、逃げる。

他者の気持ちとの共有はレッテルあるあるから

そうやって、気持ちよくなるが、
実の自分にレッテルがないことの妬みだ。

行動はできなくても
口を動かすことはできる。

そういうことなら、自分で自分にレッテルを
はればいい。
どうせなら、ださいレッテルよりも、
イケてるレッテルを貼りたいはずだ。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。

マンネリの特効薬は、
変化をつけることらしい。

それは誰かにつける薬ではなく、
じぶんにつけるレッテル薬。






いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集