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書く勇気は、生きる勇気


青年 風の噂に先生の評判を聞きましてね。なんでもこの地に一風変わった哲学者が住んでいて、看過しがたい理想論を唱えているらしい。曰く、人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる、だのと。わたしにとっては、いずれも到底受け入れられない議論です。

「嫌われる勇気」
岸見一郎・古賀史建


人は変わらない
世界は複雑
誰も幸福になれない

そう、ある青年は思って、ある哲学者を訪ねる
ところから累計400万部の大ベストセラー
「嫌われる勇気」は始まる。

変わりたいけど変われない。
シンプルに生きたいけどあまりに複雑で
幸福になりたくてもなれない葛藤が、
きっと多くの人にあって、
でもそれを口にするのも憚られる。
矛盾した、二項対立の世の中だからこそ、
「売れて」いる。

青年の言うことを否定したい自分と、
どこかで口頭している自分がいて、
そのこと自体も矛盾しているんだけど。
青年が代弁してくれていることに小気味良さが
ある。

青年は、私だ。

哲人 わたしの答えは変わりません。世界はシンプルであり、人生もまたシンプルです。
青年 なぜです?誰がどう見ても矛盾に満ちた混沌ではありませんか!
哲人 それは「世界」が複雑なのではなく、ひとえに「あなた」が世界を複雑なものとしているのです。
青年 わたしが?

同上

わたしが世界を複雑なものとしている。

え、ただそれだけのこと???

ってなる。

哲学的なあいまいさでもって、
言いくるめられたようで、反発したい気持ちと
でも、どこか的を射すぎていて逃げ場がない。

それを認めなくない自分は、より一層、
自分を殻に閉じ込めていく不気味さがはがゆい

哲人 人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。あなたが見ている世界は、わたしが見ている世界とは違うし、およそ誰とも共有しえない世界でしょう。
青年 どういうことです?先生もわたしも同じ時代、同じこの国に生きて、同じものを見ているじゃありませんか。

同上

いま私が見ている世界は、私が見たい世界。
でしかない。
見たくないものさえも、見ている自分が
いるのは、「抗えない」という
自己憐憫のような心境であり行動なのかな。

相手が見ている世界と自分が見ているは、
「全く同じ」というバイアスをはずして、
「全く違う」という土俵に立つことから始まる


哲人 井戸水の温度は年間を通してほぼ18度で一定しています。これは誰が測定しても同じ、客観の数字です。しかし、夏に飲む井戸水は冷たく感じるし、冬に飲むと温かく感じます。温度計では常に18度を保っているのに、夏と冬では感じ方が違うわけです。

同上

たしかに、同じなのに全然違う。
いやほんとう全然違う。
認めたくないけど、環境に左右されすぎている

事実をゆがめているのは、自分。
自分に都合のよいようにズラしている。

冷たい、あたたかいと、言える自分が、
かっこいいみたいな。

そのときの「あなた」にとっては、井戸水の冷たさも温かさも、動かしがたい事実なのです。主観的な世界に住んでいるとは、そういうことです。われわれは「どう見ているか」という主観がすべてであり、自分の主観から逃れることはできません。

同上

主観から逃れられない、とひらきなおってみる
それから、
「ああ、主観なんだよ」と、客観的に、
自分を見られるだけでも、全然違う。

なにが違うかと言うと、
自分が苦しくないんだ。

主観と気づかずに、主観を貫いているときは、
実は自分で首をしめていて、しんどいもんだ。
と思った。

いま、あなたの目には世界が複雑怪奇な混沌として映っている。しかし、あなた自身が変われば、世界はシンプルな姿を取り戻します。問題は世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか、なのです。

同上

問題は世界がどうあるかではなく、
あなたがどうあるか。

世界のせいにしてたな。

「取り戻せる」と言われたら、どこか
ホッとした。

もう、取り戻せないと思っていた。
どうせ、でも、だって、世界はデカ過ぎて、
変わらんもん、って。

これは心の持ちようというおはなしではなく、
行動の話な気がしてきた。


哲人 そこに映る世界は強烈にまぶしく、思わずまぶたを閉じてしまうかもしれません。再びサングラスがほしくなるかもしれません。それでもなお、サングラスを外すことができるか。世界を直視することができるか。あなたにその"勇気”があるか、です。
青年 勇気?
哲人 ええ、これは”勇気"の問題です。

同上

勇気問題。
環境問題、人権問題、数ある問題のすべては
勇気で解決できる。

そう、ガツーンと言われた。

これは他責か自責かとか、精神論のおはなし
ではない予感がする。

まだ先を読み進めないとわからないけど、
「勇気の気は、気持ちの気ではなく、
 気丈に振る舞うという、ふるまいの話」
なんだと思う。

辛く悲しい時に、人は、気丈にふるまう。
結構多くの人が、そうしている。

身近な人の死のような深い悲しみ。

ただ、そういう非日常のことではなくって、
日常のなかでどれだけ、自然に、
気丈にふるまっていけるか?が勇気であって、
人が変わる、シンプルに生きる、幸福になる。
のかもしれない。

もうちょっと読み進めてみよう、
そして、書き進めてみよう。

書くという勇気が、主観を客観に、
やわらかく変えてくれると信じて。

書くことは、世界と自分を重ねて直視する
生き続ける営み。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます

きょうは、クリーニングの日、だそうです。
9.29 く、(りー)に、(ん)ぐ??

クリーニングに出すのって、時々、しかない
んてすが、特別に仕上がってきた時、
じぶんさえもクリーニングされた気持ちに
なります。モノを洗うのもココロを洗うのも、
似ているのかもしれない。

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