書く勇気は、生きる勇気
人は変わらない
世界は複雑
誰も幸福になれない
そう、ある青年は思って、ある哲学者を訪ねる
ところから累計400万部の大ベストセラー
「嫌われる勇気」は始まる。
変わりたいけど変われない。
シンプルに生きたいけどあまりに複雑で
幸福になりたくてもなれない葛藤が、
きっと多くの人にあって、
でもそれを口にするのも憚られる。
矛盾した、二項対立の世の中だからこそ、
「売れて」いる。
青年の言うことを否定したい自分と、
どこかで口頭している自分がいて、
そのこと自体も矛盾しているんだけど。
青年が代弁してくれていることに小気味良さが
ある。
青年は、私だ。
わたしが世界を複雑なものとしている。
え、ただそれだけのこと???
ってなる。
哲学的なあいまいさでもって、
言いくるめられたようで、反発したい気持ちと
でも、どこか的を射すぎていて逃げ場がない。
それを認めなくない自分は、より一層、
自分を殻に閉じ込めていく不気味さがはがゆい
いま私が見ている世界は、私が見たい世界。
でしかない。
見たくないものさえも、見ている自分が
いるのは、「抗えない」という
自己憐憫のような心境であり行動なのかな。
相手が見ている世界と自分が見ているは、
「全く同じ」というバイアスをはずして、
「全く違う」という土俵に立つことから始まる
たしかに、同じなのに全然違う。
いやほんとう全然違う。
認めたくないけど、環境に左右されすぎている
事実をゆがめているのは、自分。
自分に都合のよいようにズラしている。
冷たい、あたたかいと、言える自分が、
かっこいいみたいな。
主観から逃れられない、とひらきなおってみる
それから、
「ああ、主観なんだよ」と、客観的に、
自分を見られるだけでも、全然違う。
なにが違うかと言うと、
自分が苦しくないんだ。
主観と気づかずに、主観を貫いているときは、
実は自分で首をしめていて、しんどいもんだ。
と思った。
問題は世界がどうあるかではなく、
あなたがどうあるか。
世界のせいにしてたな。
「取り戻せる」と言われたら、どこか
ホッとした。
もう、取り戻せないと思っていた。
どうせ、でも、だって、世界はデカ過ぎて、
変わらんもん、って。
これは心の持ちようというおはなしではなく、
行動の話な気がしてきた。
勇気問題。
環境問題、人権問題、数ある問題のすべては
勇気で解決できる。
そう、ガツーンと言われた。
これは他責か自責かとか、精神論のおはなし
ではない予感がする。
まだ先を読み進めないとわからないけど、
「勇気の気は、気持ちの気ではなく、
気丈に振る舞うという、ふるまいの話」
なんだと思う。
辛く悲しい時に、人は、気丈にふるまう。
結構多くの人が、そうしている。
身近な人の死のような深い悲しみ。
ただ、そういう非日常のことではなくって、
日常のなかでどれだけ、自然に、
気丈にふるまっていけるか?が勇気であって、
人が変わる、シンプルに生きる、幸福になる。
のかもしれない。
もうちょっと読み進めてみよう、
そして、書き進めてみよう。
書くという勇気が、主観を客観に、
やわらかく変えてくれると信じて。
書くことは、世界と自分を重ねて直視する
生き続ける営み。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます
きょうは、クリーニングの日、だそうです。
9.29 く、(りー)に、(ん)ぐ??
クリーニングに出すのって、時々、しかない
んてすが、特別に仕上がってきた時、
じぶんさえもクリーニングされた気持ちに
なります。モノを洗うのもココロを洗うのも、
似ているのかもしれない。
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