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文系か理系か?から考える、豊かに生きる考え方
「海外には日本のような文系・理系の区分はない」と言われることがあります。特に、大学で留学をした人、あるいは外国で暮らし、現地で受験をしたことがある人は、大学受験のシステムや授業が日本ほどかっちりと二つに分かれてはいないことに気づき、そう感じることが多いようです。
隠岐さや香
高2になると、文系か理系か、を大学受験のために選びました。結果は、それから35年たって文系を選んだ悔いはないのですが。
「分かれてることの意味」を、
当たり前のものとして受け取ってきたことを
思うと、もうちょっと疑ってみても、
良かったかも?と思います。
ただ、何であれ問題というものは、そこに至るまでの背景を考えずに、かけ声だけで解決するものではありません。もし、これからのことを考えたいのなら、まずは、既に存在する文系・理系(あるいはHSSとSTEM)の分裂が、どのような経織で生じたのかを、一度、立ち止まって考えてみるべきではないでしょうか。
その問題そのものの前に、どのような経緯で、
生じたのか?を考えるのがいいなあと
思いました。
あやうく、文系理系とわけるのはダメだ!
みたいな論調になりそうなところですが、
何事にも経緯があるんですもんね。
何事にも、経緯が。
数百年前の世界には、文系・理系のような区別自体が存在しませんでした。それがだんだん諸分野に細分化されて、今の状況になったのです。その経緯には、自然発生的な「やむを得ず起きた」部分と、人為的な制度によって分化が「行きすぎた」部分との双方があったように思われます。
なかったんですね!
色んなことが細分化されていく世の中と、
似ているなあ。
それも、必要善と、必要悪とあるんだってこともまた面白いです。
文系か理系か?の話が、まるで、
生き方のように見えてきます。
次に、「文系・理系という分類が、人びとの人生や社会制度とどのように関わっているか」に着目します。具体的には、就職活動やイノベーションなど、産業との関わりについて
語られること(第三章)、および、文系、理系の進路選択にみられる性差など、ジェンダーとの関連で語られることを検証します(第四章)。一旦生じた分類が、それぞれの世界に集まる人の顔ぶれや、資金の流れを大きく変え、その結果、分類の枠組みも再生産されていく様子が伝わると思います。
分類が影響をうけて成り立ち、
またその分類がなにかに影響し、
知らず知らずに再生産されている。
自分の中で分類したものも、
切り分けて捨てたりしてきたものも、
自分の中で再生産されているのかもしれないと
思います。
また、「自然科学」と「それ以外のもの」という区分は、文化の中に深く根付き、時には差別にも利用されてきました。女性や、特定の文化的背景を持つマイノリティ(アフリカ系アメリカ人など)が、「あなたは理工系に向いていない」という暗黙のメッセージを社会から受け取り続けてきたのです(第四章)。このように、人びとの自意識にすり込まれてしまった考えが消え去るまでには、まだしばらく時間がかかるでしょう。
人々の自意識にすり込まれ、
消えるまで時間がかかる。
こわいことです。
「悪気はないんだ!」ということが、
知らず知らずに自分も加担している。
それに気づいてないことに気づくこと。
この本を書きはじめたとき、私は楽観していました。文系と理系という「二つの文化」は、だんだん近づいて一つになる、というシナリオを心のどこかで想定していたのです。
しかし、執筆の過程で見えてきたのは、むしろ、諸学の統一への夢は常にあったのに、それとは違う方向に歴史が進んできたという事実でした。諸学問は、一つになることへの願望と現実における分裂・細分化という、二つの極を揺れ動きながら、実際の所、どんどん多様化し、複雑になっていったのです。
素直なお気持ちです。
ひとつになるどころか、複雑化している。
日々の暮らしでもありそうです。
あれ?これ?よけいややこしくなってない?
と、誰かが気づくこと。
軌道修正するにしてもしなくても、
そのことに気づくこと。
複雑になること、多様になることは、混乱や無秩序だけを意味するわけではありません。
むしろ、新しい視点を持つ人びとやその問題関心を学問の世界に呼び込み、豊かにしていく側面があります。
でも、複雑がだめなことでもないんですね。
より豊かにしていくために必要なプロセス。
自分の悩み、葛藤、複雑化した思考や感情も
より豊かに生きていくための必要なプロセス
一般に、異なる視点を持つ者同士で話し合うと、居心地が悪いけれど、均質な人びと同土の対話よりも、正確な推論や、斬新なアイデアを生む確率が高まると言われます。そう考えると、文系・理系のような「二つの文化」があること自体が問題なのではなく、両者の対話の乏しさこそが問われるべきなのでしょう。あるいは、論争があったとしても、相手に対する侮蔑や反発の感情が先に立って、カントがその昔目指したような(第一章)、実のある討論ができなかったことに悲劇があるのではないでしょうか。
論争と、対立も、よきこと。
それにより対話することがよきこと。
悲劇は、対話がないこと。
家庭不和も、職場のあつれきも、、
同じかもしれません。
分けて、戻して、また分けて、
放置しないで追求探究、対話していくことで
自分の人生も豊かになるんだと
思いました。
自分との対話を怠らないようにすることが、
喜劇を生む。
きょうもお付き合いくださり
ありがとうございます
きょうよかったこと3つ
・きのうかけなかったnote分も、今日二つかけた
・職場のメンバーと喜び合えた
・悲しみも共有できた