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「好きなら好きと、言ってやればよかったのに」


この『翼の王国」が心から好きだった。そしてこれからもずっと好きだと思う。
短編小説に代わってエッセイを書くようになってからは、全力でこの「好き」を書いてきたように思う。飼い猫の金ちゃんと銀ちゃんがどれほど可愛いか。台湾の屋台料理がどれほど美味しいか。マッターホルンに昇った月がどれほど美しかったか。

「素晴らしき世界〜もう一度旅へ」吉田修一さん

「好き」っていえない子供だった。
「これが好き」と自分がいえば、
「それはあんまり好きじゃない」
「わたしは〇〇が好き」
と言い返されることが怖かった。

大人になってからのほうが、
「好き」と言えてるのだから奇妙で謎。

「全力でこの「好き」を書いてきた。」

小説を書いたことはないけれど、
エッセイなら、全力で叫べそうだ。
noteなら、叫べている。

自分が好きなものを、「好きだ!」と大声で叫ぶ。こんな単純なことが、実はいかに難しく、そしていかに素敵なことであるかを、僕はこの連載を通して学ぶことができた

同上

難しくて素敵だ。

控えめに好きというんではない。
全力で好きといえることが尊い。

その違いはなんだろう。

人はなぜ、好きっていうんだろう。
言わなくても、生きていけるのに。

自分の子供の頃の話でいえば、
好きと言ったあとの
「共感」を求めているからだろうか。

いやたぶん、違うくて。

何かを好きであることは、
自分を好きであることの証なんだと思う。
何かを好きといえることは、
自分を好きといえる保証なんだと思う。


もちろん世界は甘くない。自分が好きなものを正直に好きだと言えない人たちが、世界の至るところで苦しんでいる。世界中を旅すればするほど、子供たちの輝くような笑顔の奥に、貧困という現実を見ることもある。その瞳が輝けば輝くほど、その悲しみは深い。

同上


貧困だから、言えない。
言っても意味がない、より虚しくなる。

同時に、
経済的な貧困だけでなく、
言えないことは、心の貧困社会でもある。

好きと叫ぶことで。
好きと呟くことで、誹謗中心される社会。

社会は個人だ。

自分が好きなものを、好きと言えないことは
自分の心を貧しくしてしまう。
心が貧しいからではなくて、
受け止めてもらえる自分に、社会にと願う。

この世界の素晴らしさを、この世界の美しさを、ゆっくりとだが自分の言葉で伝えていくうちに、同じようにゆっくりとだったが、このエッセイを読んで下さる方が増えていったように思う。
いろんな場所で声をかけていただいた。多くの方から感想のお便りをもらった。

同上


好きと言えば、呼応される空間。
スキを押せば、スキと返される空間。

それは波打つように、広がっていく
素敵な世界。

あせらなくていい。
ゆっくりと、伝えていけばいい。
人に、自分に、好きと。

僕が行った先々の国や人たちの素晴らしさ、美しさを語れば語るほど、そんな僕に読者の方々が敬意を払って下さった。
素晴らしい世界、美しい世界というものは、敬意で出来ているのではないか。そう気づかせてくれたのは、このエッセイを読んで下さった読者の方々だ。

同上

好きは敬意だ。

人に、自分に対する最上級の敬意だ。

機内の窓から、整列してお辞儀をし、手を振りながら見送ってくれている整備士さんたちの姿を見たことがある方も多いのではないだろうか。もし見たことがあれば、なんでもないときにはなんでもないこの光景が、なんでもなくないときにどれほど胸に沁み入るかもご存じのはずだ。

同上


いつも、この景色が好きだ。

物理上、飛行機の機内から、
高いところから、窓越しに返す
こちらからの一礼は気がひけるのだけれど。

なんでもない風景が愛しくて、
好きと心の中で呟く瞬間がある。

『ずーっとずっとだいすきだよ』
ハンス・ウィルヘルムさんの一節を
思い出す。

好きなら、好きと言ってやればよかったのに だれも、言ってやらなかった。

後悔のないように。
好きと伝えよう。

今日もお付き合いいただき、
ありがとうございます。

写真の稲穂もおおきくなりました。
お米も、ごはんもすきだけれど、
ぼくは夏の終わりのこの、
こうべを垂れる前の稲穂が好きだ。
敬意をもって、先に一礼したくなる。

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