「好きなら好きと、言ってやればよかったのに」
「好き」っていえない子供だった。
「これが好き」と自分がいえば、
「それはあんまり好きじゃない」
「わたしは〇〇が好き」
と言い返されることが怖かった。
大人になってからのほうが、
「好き」と言えてるのだから奇妙で謎。
「全力でこの「好き」を書いてきた。」
小説を書いたことはないけれど、
エッセイなら、全力で叫べそうだ。
noteなら、叫べている。
難しくて素敵だ。
控えめに好きというんではない。
全力で好きといえることが尊い。
その違いはなんだろう。
人はなぜ、好きっていうんだろう。
言わなくても、生きていけるのに。
自分の子供の頃の話でいえば、
好きと言ったあとの
「共感」を求めているからだろうか。
いやたぶん、違うくて。
何かを好きであることは、
自分を好きであることの証なんだと思う。
何かを好きといえることは、
自分を好きといえる保証なんだと思う。
貧困だから、言えない。
言っても意味がない、より虚しくなる。
同時に、
経済的な貧困だけでなく、
言えないことは、心の貧困社会でもある。
好きと叫ぶことで。
好きと呟くことで、誹謗中心される社会。
社会は個人だ。
自分が好きなものを、好きと言えないことは
自分の心を貧しくしてしまう。
心が貧しいからではなくて、
受け止めてもらえる自分に、社会にと願う。
好きと言えば、呼応される空間。
スキを押せば、スキと返される空間。
それは波打つように、広がっていく
素敵な世界。
あせらなくていい。
ゆっくりと、伝えていけばいい。
人に、自分に、好きと。
好きは敬意だ。
人に、自分に対する最上級の敬意だ。
いつも、この景色が好きだ。
物理上、飛行機の機内から、
高いところから、窓越しに返す
こちらからの一礼は気がひけるのだけれど。
なんでもない風景が愛しくて、
好きと心の中で呟く瞬間がある。
『ずーっとずっとだいすきだよ』
ハンス・ウィルヘルムさんの一節を
思い出す。
後悔のないように。
好きと伝えよう。
今日もお付き合いいただき、
ありがとうございます。
写真の稲穂もおおきくなりました。
お米も、ごはんもすきだけれど、
ぼくは夏の終わりのこの、
こうべを垂れる前の稲穂が好きだ。
敬意をもって、先に一礼したくなる。