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心の動きを記録する

エッセイスト 村井理子さんの記事より

<書くことが尽きないのは、すごい事件が日々起きるからではない。継続して書くための戦略と鍛錬とは?>
とにかく多くを記録していくこと。そのとき感じた心の動きも書いておくこと。このような詳細な記録のなかから、当時の自分の気持ちを上手に乗っけて書けそうな話をピックアップするのです。9割は使えません。残り1割から書く程度の打率だと思ってください。

【私らしく書く】「自分のこと」を書きたいが...人気エッセイストの「ネタ切れ」しないための習慣|
ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト 村井理子


すごい事件はそうそう起きなくて、
ただ、すごい小さな出来事をすごい!と
感じる感覚みたいなものは、10ヶ月毎日
noteを書いてきて以前よりは持つようになった


この村井さんの記事の一番最初にあるのが
「とにかく多くを記録していく」とのこと。

スマホのメモ機能を使って、記録をすることが
増えた。記録をすると、記憶に残りやすくなる
その記憶が、どこかで別の記録と結びついた
時、「あ、そういえばこれってさ」となる。

心の動きまでは書いてなかったから、
それは書き添えたいと思う。
それはたぶん、「うれしい」とか
「びっくりした」というだけではなく、
「かなしみが溶けた」とか、
「切なさが波のように押し寄せてきた」
とかいう「動き」であること=動詞であって
その瞬間の形容詞ではない方がよいんだと思う

書いた情報からピックアップできるものの割合が増えたということにもなります。掘り下げられるかをキャッチする視点が鋭くなったのでしょう。

同上

もちろん記録しただけでは足りなくて、
完璧でもなくて、その引き出しから取り出す
割合が増える、ということ。
打率があがるためにも、分母となる
「ピック」対象の数と
「アップ」の力量と両方が必要なんだ。

アップだけではなく、
硬い土をドリルで掘り削るように。

さつまいも堀りでまさに、「芋づる式」に
連結させながら手繰り寄せるような快感を
伴う作業なんだと思う。

どんなエッセイを書くか、蓄積した日々の情報のなかから選ぶときの基準のひとつはユーモアです。どんな悲惨な話のなかにも、おもしろいことが必ずひとつくらいはあるものです。「葬式の笑い」みたいなものです。そういうものを見つけられるネタを選んでいます。

同上

ユーモアは、忘れがち。
まじめに書くのももちろん良いけれど、
読んでて、書いてて楽しいのはそこに、
ユーモアがあること。
これは人生でも同じ。

辛く悲しい、どうしようもない日々に、
ユーモアを探し手繰り寄せる。
なんてことのない平凡な日々の中に
ユーモアを足す。

これはかなり意識して目を凝らしたり
こころのアンテナをはらないと、見つからない

ユーモアをみつけるには、
「あ、今自分、ニヤけたやろ」
という心の動きを記録に残しておくと。

自分が、というより人間が、
心が動く時ってどんな時なんだろう、
とくに喜怒哀楽ではない、
「笑」の瞬間を、写真のように
心のアルバムに風景とともにビジュアライズ
しておくことなんだろうな。

そういうのは心のよゆうがないとできないので
よゆうがあるからできるのではなく、
ユーモアある人生にするために
「記録する動き」を先立たせることが大切
なんだ。

でもここからが本当に大事なことなのですが、何事も反復練習が命なのです。エッセイも、そして翻訳も。私の翻訳の実力を10としたら、7は繰り返しによってつくられています。反復練習ができるかできないかということだけだと思います。

同上

というのは大抵三日坊主でおわる。
記録することを、反復横跳びするように
わりと短いスパンで続けることが、
「書き続け腕を上げ続け、ユーモアある文章」
いや暮らし、にしていくんだろうな。

反復する時間がないから反復できないのではなく反復するから時間がうまれる。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。

きょうよかったこと
・親戚一同が集まるというのは、良きことと、やや客観的にその場に感謝したこと
・サッカールヴァン杯、決勝戦で、泣きそうになったこと
・自分の思うことが言えたこと

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