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自分の怒りを大切に
もしも、本当に怒らないことが正解ならば、会社や学校、家庭内で、怒りの感情を露わにしないでいる、あなたは徹頭徹尾正しいはずです。ところが、正しいはずのあなたは、この本を手に取っています。きっと納得できない思いや、癒せぬ心の傷があるから、本書を開いているのでしょう。
「怒る」技術』
苫米地英人
「この本を手に取っています」
そうなんです。
怒れない
怒らない
それでよし。
と思っていたけど、なんとかしたいと
思っているからこの本を手に取りました
図書館で。
見事に言い当てられてしまったと
ドキッとしましたが、
「納得できない思い」「癒せぬ心の傷」が
あります。
「この本を読んでいますね」ではなく
「この本を手にとる」と、
その手触り感ある動作を言われたからなお、
手に取った自分を客観的に眺めてみてそこ、
にある「何か」に思いを馳せます。
理不尽な行為や感情的な発言を、広い心で受け流しているあなたが、なにゆえ傷つかねばならないのか?悪いのはあなただけなのですか?
相手に落ち度はないのですか?そんなバカなことありません。なにか問題が起きた時、どちらか一方だけが、残念ながら「怒らない人が正しい」という考えはただの思い込みにすぎません。
「なにゆえ」
そう、理由はないはずなんです。
怒ることを我慢する理由なんて、という驚き。
自分の落ち度だけにフォーカスしない。
相手の落ち度もちゃんとテーブルに載せる。
まな板の上の鯉のようにして眺める。
自分はその身動き取れない鯉ではなく、
料理人側として冷静に見る。
感情的に、怒りがこみあげたときは、
とくに自分のことしか見えなくなるので、
気をつけないと。
さて、私がこういうと、意外にも多くの人が賛同してくれます。「そう。そのとおり、よくいってくれた」と。ところが「じゃあ、これからは相手に怒りをガンガンぶつけましょう」というと、なぜかみんな尻込みします。いわく、「そんなことをしたら、人に嫌われてしまう」
「人間関係が壊れてしまうかもしれない」「社内の評判が悪くなる」「取引先とケンカできるわけがない」など、さまざまな理由をつけて、怒ることを拒否します。
相手に怒りをガンガンぶつけたらいい。
そう思うけど、そう簡単ではない。
いつも「その先」を考えてしまうから
尻込みしてしまう。
できない理由を今度は、まないたに載せます。
怒ることで、相手との関係がよくなる
とは思えないし、マイナスしかないと、
料理人の私は判断してしまう。
怒ったところで、いいことないし、
やめとこ。と、そして飲み込む
なぜ、怒ることに拒否反応が出てしまうのでしょうか?
これは怒りを考える上でとても大きなテーマです。本書の中で、その原因やメカニズム、対処法などを解説していきますが、ひとつ誤解してほしくないのは、私がいう怒ることとは感情を爆発させることではない、ということです。相手が理不尽な要求をしてきたら理を持って退け、自分の利益を、自分の大切なものを、全力で守る正当な行為をいっているのです。
だからこそ、私は「怒ることは正しい」というのです。
理を持って退ける。
怒ると情が先に立つんですが、
理が先、理が先、理が先と唱えたい。
ちゃんと理から考える。
自分の利、利、利。
自分の大切なものを守る。
全力で守る。
怒ったときは相手に矢印が向くのですが、
その矢印を自分に向ける。
自分を守るために、怒りと向き合う。
人はみな、会社や地域社会、家族といった共同体の中にいます。ですから、そこでの居場所を確保するための、身の振り方はとても大切でしょう。しかし、その共同体はなんのためにあるのでしょうか?それは、あなたの夢を実現させるためにあるはずです。であるのに、我慢ばかりしていては夢を実現させることはできません。「それは私の利益です。私のために用意されたものです」とはっきり主張しなければ、自分の理想をその手に掴むことはできないのです。
「その共同体は、なんのため?」
ハッとします。ヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3
私の夢を実現するため。忘れがち。
というか気づかないし、考えない。
怒りを我慢してこらえて、
人間関係を調整するためにそこにいるん
じゃない!
そうだ、夢を、見よう。
日本は長年怒ることを否定してきました。怒るよりは我慢が美しいという常識をずっと刷り込まれてきました。
流行語もそんなものばかりです。「男は黙ってなんとかビール」「空気を読め」などもそうでしたし、最近もてはやされる「コミュニケーション能力」も、結局は、上司のいうことによく従うことを、コミュニケーション能力といい換えているだけです。
コミュニケーション能力とは、
上司のいうことによく従うこと。
また、ズキンとします。
言い得てすぎていて。
我慢することがコミュニケーション能力、
じゃない!はず。本来。
お互いに対等にありたい姿のために、
使うもの。
我慢と従属。こんなものを何十年と強いられてきたら、鬱憤が溜まるのは当たり前です。と同時に、何十年と強いられていると、それがクセになって、そこからなかなか抜け出せなくなります。そこから抜けることは、それはそれで恐怖だからです。多少の不満はあったとしても、慣れ親しんだ場所から出て行くのは勇気がいるのですから。
実家を飛び出して、一人暮らしするみたいです
勇気がいります。
そこそこにしておけば、そこそこでいれるけど
実家を飛び出したら、元に戻る必要ないけど
自分と他者という一生避けて通れない
居場所においては、そうもいかない。
何十年先を生きやすくしておくためにも、
いまから準備しておきたい。
しかし、それは完全に杞憂ですからご安心ください。なぜなら、恐怖しているのは、相手も同じだからです。関係性を壊されることに恐怖するのは、あなただけでなく、相手も同様だということに気がついてください。
なぜそういえるのかといえば、すでにあなたと、その人たちとの関係性は固まっているからです。あなたはそれを壊したいと思っているでしょうが、周りの人たちは絶対に壊されたくありません。
これが一番ぶったまげました。
「恐怖しているのは相手も同じ。
関係性を壊されることの恐怖は、
あなただけでなく相手も」。
と、考えたことは本当になかった。
私だけだと思ってた。
勿論相手を怯えさせる必要はないけど、
そんなふうに仮定すれば、
自分だけが我慢してるんでなく、
きっと相手も我慢していることがあるし、
そういう前提で、
理を持って怒りあえばいい。
すくなくとも、自分だけが遠慮しなくていい
とおもったらずいぶん楽になれる。
きょうもお付き合いくださり
ありがとうございます。
きょうよかったこと3つ
・繰り返される相手の主張に「ちょっと待って」と自分の主張を挟めた(いつもは聞くだけで終わってた)
・大阪の芸人さんみたいですね、と言われた(東京のメンバーに。芸人ではないけど、自分を出せた)
・自分から握手した。ご定年ご退職の大先輩に。そういえば自分から握手しにいくのって、初めてかもしれない。