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「自分を転がす」で書く
流行語は、流行しているときに使ってはいけない。なぜなら、みなが使っているから。みなが、その言葉によって、同じような感覚、判断、思考、世界を想起しようと努めているのだから。みなが、判断停止、思考停止をし始めている証左なのだから。
近藤康太郎さん
流行語は、判断停止・思考停止にさせる。
流行語を使う側も、使われる側も気分がいい。
高校時代の文化祭、いや後夜祭のようなノリは
ノリで終わる淡い思い出になる。
雰囲気に酔いしれることは快だけれど、
文化祭を作り上げるまでの葛藤や苦労の中に
ある物語は、きちんと物語らないと残らない。
流行語を使うとは、世間に、言葉を預けることだ。言葉を預けるとは、自分の頭を、自分の魂を、世間に預けることだ。うわついて、邪悪で、移り気で、唾棄すべき、しかしこれなしにはどんな人間も生きられない「世間」という怪物に、自分をそのまま預けてしまうことなのだ。
ノリの海に預けて仕舞えば、あとは浮かぶか、
流されて消費されていく。
自分らしさ以上に、自分らしからぬ言葉を
預け、世間の海にウキを作るには、
流行語をあえてつかわずに、言の葉を生み出す
なぜ、わざわざ文章など書くのか。
みなが見ていること、みなが感じていることを、見ないため、感じないためだ。感性のマイノリティーになることが、文章を書くことの本質だ。
語るとは、本質的に言って、眼に見えるものを見えぬものへ変形することだ
(ブランショ「『文学空間」)
見ないため、感じないためー。
皆が、感じていることを見るため感じるために
書くと思ってた!
けど真逆をいく。
書くという流行に乗らない。
語られていない、
見られていない、
感じられてもいないことを、
探しにも行かない。
「見えないものに変形する」
と言われてももはやもう、どうしたらいい!?
と路頭に迷いそうになる。
流行の反対は不易。
不易は当たり前すぎて目には見えない、
息するかのように使われる言葉であり物語だと
するならー。
人々が感じない不易を、
もっと不易にしていくために、書く。
究極の快、書く目的。
起承転結
転を味方につければサバイブできる。
転を書いていようがなにをしようが、写メは撮られるし、書き写してアップされる。
変わりません。
しかし、転を書けるライターには、それであっても注文が来ます。転を書けるとは、換言すれば、考えることができるということです。
書くことは、考えること。
考えずに書くことは、書かなくて良い。
転じる先は、奇をてらったものではなく、
不易すぎて、沁みるように驚かす言葉。
転とは、文字どおり、転がすことです。起で書き起こし、承でおおかたを説明した事象、この事象を、自分はどう見ているかを書く。そのことで、読者を転がす。
読者の常識を、覆す。読者が考えてもいなかった方向に、話をもっていく。拉致する。
読者を転がす。
流行語では、転がらない。留まる。
拉致!
自分が転んだことのある文章はいつも、
小さな石です。
大きな石を置かれても転がることはないけれど
普通に歩いてると気づかないような、
小さな、そして丸みのない尖った石ほど、
つまづいては転がる。
転がされる。
あるいは、自分が転がることです。飛び抜けた語彙、破綻した文章、なんでもいいから、なにか芸を見せてくれ。転がってくれ。
文章でもいい。ものの見方でもいい。どちらかで、意表を突く。できれば華麗なバック転が望ましいのですが。
自分が転がると痛いです。
転がると分かってて転がるのは痛いです。
あるいは、転がると気づかずに置いてしまった
見たことのない石は、もっと痛いです。
そんな痛みのない文章はもはや流行の一部。
七転八倒、七転び八起き、輪廻転生。
そういえば、人生の転ぶ教訓、
人生の二週目におよぶ転がりは、
沢山あって、
それは生きることであり、書くことだった。
転んでも、誰かが助けてくれる
とは思わずに、転んでみたい。
だるまさんが、転んでも、縁起はわるくない。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます