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ジグザグ人生とおしぼり式
「書き出し」を読んだだけでは「本来のテーマ」がわかりにくい構成にすること。その昔、旧日本海軍では軍艦を”之字運動”で走らせたそうですね。最終目的地が敵国に察知されないよう、「之」の字の形にジグザグで操船した。それと同じ発想です。
私たちはこうして文章を磨いた」
池上彰・竹内政明
目の前を歩いている人が、
ジグザグに近づいて来られると、こわっ!
ってなりますね。
向かう先が読めなくて、ドキドキします。
読書において過度にされるといやですが、
「こう来るなら、次はこうだな」と、
先読みできすぎる書は途中で閉じてしまいそう
もう一つは、「書き出し」と「オチ」を多少なりとも関連づけること。例えば、落語の一節から書き始めたら、最後も落語絡みで締めくくりたい。
最初からオチを狙いすぎると、読者は
これまた向かう先が読めちゃうのでオチない。
ジグザグに進んでいたはずなのに、
気づいたらスタートラインに戻ってて、
でもそれは同じ位置ではなく、
らせん階段のように何階も上にたどりついて
いるような文章。
世界中のおいしいものを求めて旅したら、
結局家のご飯が一番美味しかった、ような。
オチは、トゲがあるようなサプライズでなく
文字通り 落ちつく ような、安堵を伴うのがいいのかもしれない。
そんな、人生の終末なら楽しい。
書くことは、生きることに似ている。
書き出しのいい文章というと、向田邦子が思い浮かびますね。こうした文章術の本には、向田邦子は必ず出てきて、読者も「またか」と思われるかもしれないので、あまり触れないようにしますが、やっぱりエッセーの書き出しは名人芸です。それこそ「どこに話がいくのか」予想がつかない。
人の名前や言葉を、間違って覚えてしまうことがある。
私は、画家のモジリアニを、どういうわけかモリジアニと覚えてしまった。
(講談社刊・向田邦子著『眠る盃」所収「眠る盃」より)
一度だけだが、「正式」に痴漢に襲われたことがある。二十三年前の夏であった。
(講談社刊・向田邦子著『眠る盃」所収「恩人」より)
わかるようでわからない、というレベルでなく
まったくわからない!
ど、どこに行くんだ?と目隠しされて
車で運ばれていくような。
でもそれは本当の誘拐とかではなく、
バラエティ番組のそれであって
「きっと、向田さんは、
いいところにオチつかせるんだろう」という
一定の安心と信頼のうえに、快感を運ぶ。
人を貶めようというようなこともない。
どうやったらそんな愉快な書き出しが
書けるんだろう?
エッセーの表題と書き出しがつながらない。この先の展開がまったく読めないでしょう。
それだけじゃないんです。以前に池上さんが「新聞ななめ読み」で使われていた表現をお借りすると、向田邦子のエッセーは、「人気のお店の典型」だと思うんですよね。
ーつ一つのセンテンスが短くてリズムがいいし、内容が頭にスッと入ってくる。つまり「入りやすい店構え」をしている。でも、その店構えを見ただけで、奥にどんな商品が並んでいるのか、どんな料理が出てくるのかがわかってしまえば、お客さんは「ああ、そういう店か」と店内に足を踏み入れないかもしれない。文章で言えば、もう読むのをやめてしまう。
まどろこしい長文で来られると、引く。
それが単に短いだけでもわからないので、
「一文が短い」こと。
「リズムがいい」こと。
これは文字にするとなんとなくわかるけど、
文を書くと、とてつもなく戸惑う。
「文を音で書く」には、声に出して読むしかない
五七五
韻を踏む
余計な形容詞はトル
それだけでも違う。
そんな「無駄がない」ことは、
お客さんの無駄な思考を働かせず、
感覚感情、でスーッとなじむ。
ただ、単に無駄がないだけでは面白みがない
そそらない。
ジグザグがいる。
ストレートに来られては、オチない。
駆け引きのような、
ドキドキがほしい。という読者やお客さんの
わがままがいる。
向田邦子のエッセーは違うんですね。どんな話に展開するのかわからないので、「ああ、この話ならいいや」とはならない。つい「奥はどうなっているのかな」と覗き込みたくなる造りになっているんです
覗き込むためには、
ジグザグな道である必要がある。
この先はどうなるのか?と、
ここからは見えないけど、前足をだせば、
違う道が現れて誘われる。
敷かれたレールを歩く人生が退屈なように、
右かと思えば左へ。
左と思えば上へ行くような、
先に見えない人気店は、人気のある人生になる
そのためには、
「そそる書き出し」が大切になる。
書き出しはだれも書いてくれないから、
自分で文字通り、「書き出す」しかない。
結論と読者をつなぐブリッジのかけ方
最後をちょっと緩める
今野敏氏は、二〇一五年一二月二五日の毎日新聞夕刊によれば、還暦になったこの年、酒とたばこをやめ、体調がすこぶる良いそうです。さらに記者の質問にこう答えています。
「書けるだけ書きたいね。まだまだ至らない。もっともっと小説がうまくなりたいんだ、俺」と。愛読者としては、今後も期待が持てるではありませんか。
(新潮社刊・今野敏著『辛領ー隠蔽捜査5』の文庫版解説より筆・池上彰)
この最後のところで、フッと緩めているところが、いいなあと思いました。おしぼりをきゅっと絞ると、ちょっと戻りますよね。この「戻し」の部分が読後感を心地よいものにしています。
おしぼりをしぼると、ちょっと戻る。
しぼられたままだと苦しくて。
「戻し」のやさしさは、バネの遊びのように、
ストレッチしぱなしだとストレスがあるけど、
戻りがある余白は、安心をくれる。
「おしぼり式」は短編小説の手法ですが、コラムやエッセーでも有効です。メインスト1リーを書き終えたところで、ほんのすこしだけ蛇足を入れる。それが余韻を生んで、これまで書いてきた話が読者の心にいっそう沁みるようになる。
解説文でも、最後の最後まで解説の文で埋めてしまうと、どうしても説教くさくなる。
お勉強をさせられている気になってしまう。最後にほんの数行でも緩めてくれると、楽しいエッセーを読んだという気になる。
書き出しと、オチはセットで。
書き出しはジグザグで、オチには戻りを。
うん、書けそう!とはならない笑
けど、楽しそう!ではある。
それはまた、人生と似ていて、
生きていくのは大変なんだけど、
楽しそうにすることはできて、
それは、右往左往するくらいで、
オチは戻りを残すくらいにゆるやかに
生きればいいんだなって、書くことが
教えてくれる気がします。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。
きょうの本心
空が、青かった。
青い空を見て、外で遊びたくなった。
寒いことも、わるくない。